参戦開始
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コローニは地元イタリアF3の強豪チームとして活躍していたが、1987年イタリアGPでF1に初参戦した(コローニ・FC187)。しかし、同グランプリでは予選通過を果たせず、決勝に進出したのは2戦後のスペインGPだったが、完走は成らなかった。この年はイタリアGPとスペインGPの2戦のみに参戦した。 1988年よりフル参戦を行い、新型車のFC188とFC188Bを投入した。F1の決勝初完走は同年第4戦メキシコGP(14位)だった。 1989年はロベルト・モレノとピエール=アンリ・ラファネルの2カー体制となるが、参加台数が40台近くに達したために前半戦はラファネルが、後半戦は2台とも予備予選に回されてしまう。その結果、決勝進出は13回に留まった。またカナダGPよりニューマシンC3がデビューしたが、スポンサーにも恵まれることはなく資金不足に悩まされる。結果的に、1989年ポルトガルGPでのモレノがコローニにとって最後の決勝進出となった。
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参戦開始
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「ラルース (F1チーム)」の記事における「参戦開始」の解説
ル・マン優勝ドライバーでありルノーF1監督も務めたジェラール・ラルースが、実業家のディディエ・カルメルとともに1987年に「ラルース・カルメル」を設立した。参戦開始当初は、自らシャシーを製作するのではなく、名門シャシー・コンストラクターのローラ社に依頼。エンジンはフォード・コスワース・DFZ V8を使用していた。1987年のシーズン開幕当初はフィリップ・アリオーのみの1カー体制で、終盤戦のメキシコGPからヤニック・ダルマスを加えた2カーエントリーが実現した。アリオーがドイツGPなど3回の6位入賞、ダルマスもオーストラリアGPで5位入賞(ただしラルース・カルメルが1カー登録であったため、ポイントは無効処分となった)するなど、初年度としてはまずますの成績を収めた。しかしながらラルースは開幕戦にマシンが間に合わず、初戦を欠場しておりFISAからは罰金を科せられていた。 1988年日本GPでは、中耳炎により欠場することになった、ダルマスに代えて急遽鈴木亜久里をスポット参戦させた。 1989年3月にディディエ・カルメルは妻の殺人容疑で実刑判決を受け、同年のサンマリノGPを前にチームを辞した。チームはカルメルの名を除き以後「ラルース」として参戦するようになった。この年からランボルギーニのエンジン供給を受けたが、目立った戦績は残せなかった。後半戦は予備予選組にまわった。
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