参戦軍から西北辺防軍へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 21:08 UTC 版)
7月20日、参戦督弁は辺防督弁に改称、段祺瑞が引き続き督弁を務めた。また、徐樹錚が編成していた4個旅からなる西北辺防軍と合併。以降、西北辺防軍第1、第2、第3師に改称された。8月15日、「督弁辺防事務処組織令」により大総統直属とされたが、実際は段祺瑞が引き続き掌握した。辺防督弁処の人員及び組織機構に大きな変化はなかったが、唯一、外事処が軍務処に改編された。10月29日に、第1師はトラック80台を以てモンゴル侵攻を行った。 1920年(民国19年)になると、いよいよ直隷派との対立は深まり、5月18日から19日にかけて、辺防軍は出動準備を開始するようになる。21日、小幡公使は内田康哉外相に向け「参戦軍は内戦に使用せずとの声明により一応外交部の説明を求め置く必要はないのか」「曹錕・張作霖に対しても何らかの警告を行うべき」と具申したが、内田外相は「参戦軍問題に関し支那側の注意を喚起するか如き積極的措置に出つるは素より事すこぶる機微にわたり今後形勢の推移を侯て考慮を要する問題」とあいまいな態度を示し、居留民や官憲が内戦に干渉することを避けるよう指示するにとどまった。また同日、坂西少将も上原勇作参謀総長に対し、安直戦争勃発の際、辺防軍応聘日本軍将校の取るべき行動について指示を求めたが、上原の回答もやはり内戦に巻き込まれることを避けるにとどまった。大総統顧問の青木宣純中将は、辺防軍使用は中国政府の声明に反するものであるから、中国政府に抗議するとともに声明の履行を取り計らうよう参謀総長に具申した。6月2日、坂西は段祺瑞を訪問し、辺防軍の使用反対を主張した。 6月22日、曹錕・呉佩孚・張作霖は保定会議で、西北籌辺使の廃止と徐樹錚の更迭を決定した。 7月1日、曹錕・呉佩孚は連名で「直隷軍から辺防軍将兵に告ぐ」(直軍將士告邊防軍將士書)との声明を発表した。7月4日、直隷派・奉天派と近しい大総統・徐世昌は保定会議に基づき徐樹錚を更迭、西北辺防軍を陸軍省直轄に移管するとの決定を下した。この事が安直戦争への決定打となる。 7日、広東軍政府外交部長・温宗尭は太田喜平広州総領事に対し、辺防軍出動はそれを編成した日本の口約に反するから、辺防軍をその目的以外で使用させないよう取り計らってほしいと要求した。 9日、内田外相は5月の小幡公使の主張に対し、「和平勧告を行う事は両派の争点に是非を下すことになるとして退け、辺防軍の使用問題に関しても、軍閥諸派が相争っている際に一方だけ使用禁止を強制することは内政干渉の非難を逃れず、もし外交団からの批判があった時は、辺防軍の内戦不使用は中国政府が言明したものであるから日本政府が強要する義務はなく、その保証を破るか否かも中国政府の責任として一応論駁した上で、その後の措置については請訓せよ」と回答し、陸軍当局も坂西に対し同様の回答を行った。
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