参戦準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 00:11 UTC 版)
ウィルソン・フィッティパルディは1972年にブラバムからF1への参戦を始めたが、翌1973年まで中団争いに甘んじ、同時にブラバムチームにおける待遇に不満を覚えてもいた。1973年末には弟でありやはり現役のF1ドライバーであったエマーソン(ただしウィルソンと異なり1972年にチャンピオンになり、1973年もチャンピオン争いをしていた)と相談し、ブラジル国籍のF1チームの創設を決意することとなる。 こうした決断にいたる以前には、フィッティパルディ兄弟が1960年代にブラジル国内において輸入品に手を加えた自製のフォーミュラ・Veeやカート販売の事業を手がけ、市販自動車のカスタムパーツ販売などの分野でも成功を収めていたという経緯があり、ヨーロッパではF2に参戦するかたわら所属チームであるバーダルチームの運営にも関与し、バーダル/フィッティパルディ連名で幾つかのレース用改造車両を手がけるなどしている(この当時の「チーム・フィッティパルディ」とF1コンストラクターの「フィッティパルディ」との間に直接的な繋がりはない)。 同時に、F1参戦を可能としたのは、戦闘力もあり入手も容易なコスワースDFVエンジンとヒューランド製ギアボックスが存在するという当時のF1の時代背景も大きかった。そのため、ほぼ同時期に、やはり現役F1ドライバーのジョン・サーティース、グラハム・ヒルによってサーティース(1970年設立)、ヒル(1975年)が設立されてもいる。 ウィルソンは1974年はF1のドライバーとして休養し、チームの設立準備に専念した。この間に、ブラジルの砂糖・アルコール製造と銅の産出及び製造のコングロマリットであるコパスカー社から資金援助を引き出すことに成功するとともに、不安材料であった風洞実験や車体製造にあたってはブラジルの国営の航空機メーカーであるエンブラエルの支援をも取り付けた。この間、マクラーレンに所属していた弟のエマーソンもチームのコンサルタントとして間接的に関わっている。
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