参戦武将
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武田軍旗本本隊(8000人)総大将:武田信玄 武田信繁、武田義信、武田信廉、武田義勝(望月信頼)、穴山信君、飯富昌景(山県昌景)、工藤祐長(内藤昌豊)、諸角虎定、跡部勝資、今福虎孝、浅利信種、山本勘助、室賀信俊 妻女山別働隊(12000人)春日虎綱(高坂昌信)、馬場信房、飯富虎昌、小山田信有(弥三郎)?、甘利昌忠、真田幸綱、相木昌朝、芦田信守、小山田虎満(昌辰)、小幡憲重 上杉軍(13000人)総大将:上杉政虎 柿崎景家、本庄実乃、五十公野治長、中条藤資、安田長秀、加地春綱、色部勝長、本庄繁長、鮎川清長、山吉豊守村上義清、高梨政頼、井上清政、北条高広、宇佐美定満、荒川長実、志駄義時、大川忠秀 直江実綱(小荷駄護衛) 甘粕景持(殿(しんがり)) 長尾政景(春日山留守居) 斎藤朝信(越中方面守備) 『甲陽軍鑑』などによる。なお、都留郡の領主である小山田氏は、『甲陽軍鑑』では当主の弥三郎信有が参陣し妻女山を迂回攻撃する部隊に配属されたと記している。一方、『勝山記』によれば弥三郎信有本人は病床にあったため参陣せず、小山田衆を派遣しており、小山田衆は側面攻撃を意味する「ヨコイレ」を行ったという。弥三郎信有は永禄8年(1565年)に死去し、小山田氏当主は信茂に交代する。
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参戦武将
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史料が少ないため、一部は推定で補う必要があるが、下記のように考えられている。
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参戦武将
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※ † このマークが付いている人物はこの合戦で戦死した人物。
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