志駄義時とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 志駄義時の意味・解説 

志駄義時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/25 02:29 UTC 版)

 
志駄 義時
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄4年(1561年
別名 志田 義時
墓所 西福寺(東京都豊島区)
主君 上杉謙信
氏族 志田氏
父母 志駄春義
直江景綱の姉
志駄義秀
テンプレートを表示

志駄 義時 (しだ よしとき、1542年?-1561年)は、戦国時代武将である。上杉氏家臣[1]

略歴

越後国夏戸城(現新潟県長岡市)の城主であり、1561年第四次川中島の戦いでは直江景綱に従い参戦するも。討ち死にした[2]。嫡男の義秀は当時2歳であり、義秀の母の実家である直江氏が後見人となった[1]

脚注

  1. ^ a b 北陸道
  2. ^ 史料通信協会叢誌

参考文献

  • 日本外史-上(1921年、933p)
  • 北陸道(1984)
  • 史料通信協会叢誌(94p)

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  志駄義時のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「志駄義時」の関連用語

志駄義時のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



志駄義時のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの志駄義時 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS