尼子再興軍の出撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 19:15 UTC 版)
一方の尼子再興軍は、原手郡の戦いや隠岐為清の反乱(美保関の合戦)などによって時間をとられ、出雲国の拠点である月山富田城を攻略することができないでいた。1月28日(3月4日)には、多久和大和守らが守る多久和城(現在の雲南市三刀屋町多久和)が毛利軍の攻撃を受け、その救援のための援軍を出すもわずか1日によって攻め落とさた。尼子再興軍は、毛利軍の侵攻を止めることはおろか時間を稼ぐことすらできないでいた。幸盛ら尼子再興軍は、布部(現在の島根県安来市広瀬町布部)の中山の地を毛利軍の侵攻を防ぐ最終防衛地と捉え、各地に散らばる尼子再興軍を集結させ決戦に備えようとした。 この布部の中山(布部山)の地は、月山富田城から南方へ12km進んだ所にあり、三刀屋から三沢・横田を抜け月山富田城へ進む場合には必ず通る必要がある要衝であった。また、この地から月山富田城へ進む道は布部山の尾根づたいに通じており、一度、布部山の麓から山頂まで登る必要があった。周りは険峻な山で囲まれ、尾根道へ登るには西側の水谷口か東側の中山口のどちらを通る必要があった。つまり、三沢・横田方面から月山富田城へ進むには、水谷口か中山口、2つの谷口のどちらかを通る必要があったため、この2つの谷口を抑えておけば毛利軍の進軍を阻止することができた。 山中幸盛と立原久綱は大将である尼子勝久を居城である末次城に残すと、少数の軍勢を率いて出陣する。末次城には大勢が籠もっているように見せるため、また毛利方に「少数で出陣してきたのは謀ではないか」と疑いを持たせて時間を稼ぎ、その隙に味方の軍勢を集結する策謀であった。この策が功を奏したのか、幸盛らは各地の尼子再興軍を招集し、毛利軍の来襲前2月11日(3月17日)には布部山の地に陣を張ることに成功する。明日12日には毛利軍は布部山の南方12kmに位置する比田の地(現在の島根県安来市広瀬町西比田)まで迫ってきており、まさにギリギリの行軍であった。幸盛は軍を半数ずつ2手に分けると、水谷口、中山口の中腹にそれぞれ配置し、本陣は布部山の山頂付近に置いた(主要な参戦武将は、#戦いに参戦した武将を参照)。
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