美保関の合戦とは? わかりやすく解説

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美保関の合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 20:07 UTC 版)

美保関の合戦(みほのせきのがっせん)は、1569年10月(永禄12年9月)に山中幸盛ら率いる尼子再興軍と、尼子再興軍に叛旗を翻した隠岐為清ら率いる軍との間に起こった戦いである。戦いの場所が美保関(現在の現在の島根県松江市美保関町)で行われたことから、美保関の合戦と呼ばれる[1]


  1. ^ 雲陽軍実記』は第四巻、『陰徳太平記』は巻四十三、『太閤記』は巻十九 山中鹿助伝に記載。
  2. ^ その理由については諸説ある。下記の補足、隠岐為清の叛乱の謎を参照のこと。
  3. ^ 第1陣は、『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』共に約300人。本陣は、『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』共に約400人。『太閤記』には、兵を2手に分けた記載はない。兵は約1,000人と記載する。
  4. ^ 『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』による。
  5. ^ 『陰徳太平記』や『太閤記』には、小船を少量しか集めることができなかったと記載される。集めた船の数は、『雲陽軍実記』は10艘、『陰徳太平記』は8艘、『太閤記』は2艘。
  6. ^ 『太閤記』より。申の刻(午後4時)に出航して、戌の刻(午後8時)に美保関まであと10町(3km)のところまで来た。
  7. ^ 尼子再興軍が率いた兵は、『雲陽軍実記』は251人、『陰徳太平記』は約250人(当初船に乗り込んだ人数は約400人と記載されるが、横道ら約150~160人を乗せた船は遅れて到着した)。『太閤記』は約120人。
  8. ^ 『太閤記』にはそのような記載はない。尼子再興軍が当初より圧倒し、山中幸盛が隠岐為清を討ち取り勝利する。
  9. ^ 『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』とも150~160人と記載。
  10. ^ 『雲陽軍実記』は、逃げる兵が船の取り合いで同士討ちを行い、約60人が死んだと記載。『陰徳太平記』は、同様に同士討ちを行い、何百人が死んだと記載する。また、翌日に海の中を探したら、63人の遺体が見つかったと記載。『太閤記』は、隠岐為清、並びに組頭109名、その外865名が討ち取られたと記載。
  11. ^ 『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』より。『太閤記』には当然この記載はない。
  12. ^ 『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』より。『太閤記』には、捕虜についての記載はない。
  13. ^ 『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』、どちらも約400人と記載。
  14. ^ a b 『雲陽軍実記』、『陰徳太平記』ともに同じように記載。
  15. ^ 朝山皓『山中鹿介』の中の「新山城を中心とする山中幸盛の活躍」より。
  16. ^ 『海士町村上家文書』より。
  17. ^ 太閤記』巻十九 山中鹿助伝より。船も2艘しか用意できず、約120人でしか攻め込むことができなかった。


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