雲陽軍実記とは? わかりやすく解説

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雲陽軍実記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/27 13:03 UTC 版)

雲陽軍実記』(うんようぐんじつき)は、出雲国戦国大名であった尼子氏の歴史を記した軍記物で、日本の古典文学の1つである。

概要

出雲国に勢力を張った尼子氏の盛衰を描いた軍記物で、出雲守護京極氏によって出雲国から尼子経久が一時追放されたとされる文明16年(1484年)から、播磨上月城で毛利軍に敗れた尼子勝久山中幸盛らが命を落として尼子再興軍が壊滅した天正6年(1578年)までの95年間の歴史を記している。

『雲陽軍実記』の序文や奥書によると、大名としての尼子氏が滅亡し、尼子勝久や山中幸盛らによる尼子再興軍も滅んだ後の天正8年(1580年)3月に旧尼子家臣の河本隆政[注釈 1]が著し、隆政の死後に同族である河本隆任の子孫である河本家において門外不出の秘録として伝来したとされている[1][2]

しかし、現在は原本が残っておらず、幾つか残る写本は各本で字句の相違や誤記が見られるだけでなく、その内容にも天正8年(1580年)に成立したとすると不審な点もあり、写本の過程で後世の人間が恣意的に内容を追加したとみられる形跡があることも指摘されている[注釈 2][4]

成立と伝来の経緯

『雲陽軍実記』に記された成立経緯

『雲陽軍実記』の序文や奥書にはその成立過程が以下のように記されている。

天文9年(1540年)から天文10年(1541年)にかけて尼子氏の軍勢が安芸国に侵攻した吉田郡山城の戦い(郡山合戦)に従軍した当時20歳の尼子家臣・河本隆政(後の河本静楽軒)は、陶隆房(後の陶晴賢)との戦いにおいて、組討ちで敵兵を討ち取った際に重傷を負ったことで足が不自由となったため、尼子氏を致仕して月山富田城近くの城安寺の傍に隠棲した[1][2][5]

その隠棲生活の中で隆政は自ら筆を執り、出雲国の軍事を中心として関連ある諸国の軍事も記した5巻の書物を著して『雲陽軍実記』と題し、天正8年(1580年)3月に成立したとしている[1][6]。なお、河本隆政が直接見聞きできない戦場での出来事については、親族や友人・知人に送らせた軍中の情報を基に[7]、虚妄浮説や作為を排除したとして、序文では「全く実録と為すべきなり」[8]、奥書では「他生の知らざる実録なり」と記している[2]

写本の伝来

『雲陽軍実記』の奥書によると、隆政の死後に『雲陽軍実記』の原本は同族の河本隆任の子孫である河本家の秘録として代々相伝したと記している[2]

江戸時代に入り、『雲陽軍実記』が成立したとされる天正8年(1580年)から191年が経過した明和8年(1771年)8月に春日由雄が著した『雲陽軍実記考』には、「そもそも諸軍記を探索して普く見侍りける。古老の者も此の記(雲陽軍実記)ある事を知らざりしに飯石郡に所持せし者ありて深く蔵置けるが、此の事を伝聞せし者、多年の懇望切なるによりて、近年ひそかに借進せしめて写し取りけるより、縁により伝て求め書写せしもの数十家に及べりとぞ」と記されており、この記述から、長く秘録とされてきた『雲陽軍実記』も明和8年(1771年)時点の近年から次第に写本が作られ、狭い地域の中でではあるが流布していったことが分かる[9][10]

しかし、「書写せしもの数十家に及べり」と記されているように多くの写本が作られたものの現存するものは少なく、勝田勝年の調査では少なくとも以下の写本が現存していたことが判明している[11]

  • 平仮名本 - 安政5年(1858年)9月に安部氏富右衛門誉富が入手した21冊の和装本[12]
  • 片仮名本 - 具体的な書写年代は不明だが、幕末頃の写本とみられる[12]。片仮名で記され、原本と同じく5巻本[12]
  • 『補正雲陽軍実記』 - 代々、広瀬藩兵法家であった森山家で所蔵され、その後は島根県能義郡広瀬町の天野新が所蔵した写本[12]。『雲陽軍実記』の粗野な文章を整備して「補正」の二字を冠して成立した[12]。兵法の参考書として愛読されたものと考えられており、奥書には社家の宮脇好重が所蔵した『雲陽軍実記』全5巻を底本として書写したと記されているが、書写年月日や書写人は不明[12]。また、『雲陽軍実記』とは異なり、一般の人が理解しやすいように「尼子分国十壱州之図」、「出雲十郡之図」、「富田月山城之図」の3つの絵図が追加された点が特徴[13]。さらに、『雲陽軍実記』には収録されていた「大友家系譜」と「香川家世代」を除いた上で、『山中鹿之助伝』と『陰徳太平記』から「真木上野介弓勢之伝」と「塩冶興久変化退治之事」を引用して追加している[14]

以上の様に、江戸時代に出雲国の狭い地域で複数の写本が流布されていったが、『雲陽軍実記』の原本は現存していない[15]

活字本の出版

明治44年(1911年9月25日に島根県松江市殿町の布野勝太郎が『雲陽軍実記』の活字本を出版し、次いで同年11月16日には同町の松陽新報社出版部も『雲陽軍実記』の活字本を出版した[16]。これにより以前よりは『雲陽軍実記』の閲覧が簡便になったが、明治時代の活字本は『雲陽軍実記』の全文をそのまま活字化したものに過ぎず、いずれもその普及度は低かった[16][17]

昭和後期に入ると明治時代に出版された活字本も稀覯本となっていたため、再び『雲陽軍実記』出版の機運が高まった。島根県郷土史家である妹尾豊三郎は、『雲陽軍実記』の原文が戦記文特有の和漢混淆文で難解な所も少なくないことから、現代の読者が読みやすいように内容は原文に忠実に準拠しつつも和漢の故事などは割愛し、文字、語句、文体等をなるべく平易にすることを心掛けて現代的に書き直した『新雲陽軍実記』を、昭和48年(1973年)8月に広瀬町役場から出版した[18]

また、同時期に、尼子氏と毛利氏との長年かつ広範囲に及ぶ合戦を知るために双方の史料が紹介される必要性を感じた勝田勝年[注釈 3]は、『雲陽軍実記』を全国の読者のために紹介することを目的[注釈 4]として、明治時代に出版された2つの活字本を比較し、その他2、3の写本も併せて検討した結果、松陽新報社が出版した『雲陽軍実記』の活字本を底本として、読者の理解を助けるために注釈解題凡例などを加えた上で『尼子毛利合戦 雲陽軍実記』と題し[注釈 5]昭和53年(1978年)12月に新人物往来社から出版した[20]

なお、『尼子毛利合戦 雲陽軍実記』の出版に際して勝田勝年は『雲陽軍実記』の原本や松陽新報社が活字本を出版した際に使用された『雲陽軍実記』を探したが、原本も明治時代の2つの活字本でそれぞれ底本として採用された『雲陽軍実記』のどちらも所在が不明であったため、松陽新報社によって出版された活字本自体を底本とすることにしたという[20]

成立年代に関する不審点

『雲陽軍実記』はその序文と奥書の記述から、天正8年(1580年)3月に旧尼子家臣の河本隆政によって成立したとされている[1][2]。しかし、その内容を検討すると、写本ごとに字句の相違や誤写が見られるだけでなく、明らかに天正8年(1580年)以降でないと記述できない箇所や、後世の人間が写本の際に恣意的に内容を追加したと思われる箇所が存在しており[4][21]、以下に成立年代に関する不審点を列記する。

  • 『雲陽軍実記』の第2巻に寛永15年(1638年)から正保2年(1645年)にかけて林羅山によって成立したとされる『本朝神社考』、寛文年間(1661年-1673年)に白井宗国が著した『神社啓蒙』、延宝7年(1679年)に潮音道海が刊行したとされる『旧事大成経』といった江戸時代に成立した書物の書名が本文中に登場している[5][22]
  • 『雲陽軍実記』の第5巻で「輝元公中納言に任じ給へり」[注釈 6][24]、「天正の末に至り」[25]といった文言が登場し、明らかに天正8年(1580年)以降の記述である箇所が散見される[5]
  • 『雲陽軍実記』には尼子氏や毛利氏などの系図が収録されているが、毛利氏の系図では毛利秀元毛利秀就毛利就隆も記載され、赤穴氏の系図において赤穴元隅の事績として「此時長門萩へ下る」と記されており、いずれも天正8年(1580年)時点では記載できない内容である[5]
  • 『雲陽軍実記』の本文中において、天正8年(1580年)時点ではまだ名乗っていない名前や、後世の軍記物でのみ使用されている名前が使用されている箇所が存在する。前者の例として、『雲陽軍実記』では吉川元春の次男である繁沢元氏を「左近允元氏」と記している[26]が、元氏が「仁保元棟」から「繁沢元氏」と改名したのは天正15年(1587年)8月である。また、後者の例として、尼子経久の弟である尼子久幸の名を『陰徳太平記』などで見られる「尼子義勝」の名で記している。
  • 『雲陽軍実記』の序文では同書が成立した天正8年(1580年)時点の河本隆政の年齢を87歳とする一方で、奥書では天文10年(1539年)の吉田郡山城の戦い時点で20歳としていることから計算すると天正8年(1580年)時点で61歳となるように、『雲陽軍実記』の序文と奥書で著者である河本隆政の年齢の記載に相違がある[27]
  • 『雲陽軍実記』は旧尼子氏家臣が近い時代に記した書物としているにも関わらず、主君である尼子晴久の生没年を誤っている。『雲陽軍実記』では尼子晴久永禄5年(1562年12月24日に48歳で急死したと記している[注釈 7]が、実際には永禄3年(1560年)12月24日に47歳で死去している[29]。なお、軍記物の『陰徳太平記』では尼子晴久が永禄5年(1562年)12月24日が49歳で死去したとしており[30]、生年は正しいが、没年は『雲陽軍実記』と同様に誤っている。
  • 天文11年(1542年)から始まる大内義隆による第一次月山富田城の戦いにおいて、尼子軍が鉄砲20梃を使用し、一方の大内軍も鉄砲50梃を有していたという記述がある[31]が、天文11年(1542年)は通説で種子島鉄砲が伝来したとされる年の前年にあたる[注釈 8]。また、『雲陽軍実記』では鉄砲の伝来について、「そもそも鉄砲と云ふ物、唐土には上古よりこれありと見えたれども、我が朝には知る者なし。先年大内義興公官領職の時、九州種子島より初めて将軍に献ず」と記しているが、大内義興が管領代の地位に就いていたのは永正5年(1508年)7月から永正15年(1518年)8月であるため、『雲陽軍実記』の記述に基づくと、通説よりも約30年早く種子島に鉄砲が伝来した上で将軍に献上されたことになる。
  • 『雲陽軍実記』では、京極修理大夫の孫娘で尼子義久の妻である宗旭禅尼について、月山富田城を開城して大名としての尼子氏が滅亡した後に朝山観音寺で剃髪し尼僧になったとされている[32]が、実際は月山富田城開城の2日前に死去(病死、もしくは投降前に自害・殺害)しており、『雲陽軍実記』における脚色や歴史的史実との相違として指摘されている[要出典]

評価

  • 妹尾豊三郎は『雲陽軍実記』について、「原本である雲陽軍実記については批判的な意見もあるが、この本が書きおろされたのは天正8年であり、著者自身も「全く実録と為す可き也」とその序に誌している程であるから、尼子の盛衰を理解するには好箇の資料であることに間違いはない」と述べて高く評価している[18]
  • 勝田勝年は、『雲陽軍実記』を通読した印象として、文体が活気に富んで「血湧き肉躍る」の感を催させ、他の史料が史実の正確性に重点を置いたのに対して『雲陽軍実記』は戦国武士の心情や世相の描写に力点を置いていると評し、君臣間の服従、家族間の情愛、武士と庶民間の関係、動乱の世情による人身の流動などを知る好史料であると述べている[33]。また、『雲陽軍実記』の記述傾向として、尼子氏の全盛期を現出した尼子経久に理想的な人間像を求め、尼子氏家臣はいかなることがあっても主君に忠節を尽くすことを主張する一方で、尼子氏に反抗したり、敵方の大内氏や毛利氏に属した武士に対する憎悪の念が見出されると分析している[注釈 9][注釈 10][36]

目次

系譜
第1巻
第2巻
  • 赤穴初度合戦 並びに熊谷直続討たるるの事
  • 再び赤穴合戦 附けたり城主三善右京亮主従戦死の事
  • 大内義隆、富田へ攻め入り 附けたり晴持入水、所々陣替へ敗走の事
  • 尼子晴久作州発向 附けたり播州より敗走の事
  • 赤穴光清、山の内に戦死 附けたり石州度々合戦、福屋反心の事
  • 石州銀山城兵糧絶ゆ 附けたり尼子晴久大勢出馬の事
  • 高野山入道久意上阿井合戦 同じく来島軍の事
  • 毛利大勢銀山山吹城を攻む 附けたり本庄父子反心、毛利に属するの事
  • 赤穴滞陣城内評議 附けたり森田、烏田等義心の事
  • 芸州勢、赤穴城に入る 附けたり突根尾原一揆度々軍合戦の事
  • 元就、赤穴陣中の閑談 附けたり雲州攻め入り向城の事
  • 本庄、本田乃木城合戦 附けたり所々城主降礼退去の事
第3巻
  • 本庄越中守経光父子誅戮せらる 並びに評論の事
  • 雲州国士毛利に反し再び尼子方一味の事
  • 元就、元春厳島並びに鰐淵山にて調伏法を修めらるるの事
  • 八畦地王峯合戦 並びに浮説によつて富田勢逃走の事
  • 白鹿城二ノ城戸大合戦 並びに箭文返歌の事
  • 熊野合戦 並びに熊野和泉守討死の事
  • 富田城出張先鋒争ひ 並びに白鹿の麓合戦、尼子方敗北の事
  • 伊藤の福良城合戦 並びに作間入道討死の事
  • 伯州浜の目合戦 並びにの兵糧船大江奪取の事
  • 野白一揆合戦、毛利勢敗走の事
  • 杉原播磨守盛重と山中、立原、秋上等三保関軍の事
  • 富田惣攻め三所合戦 並びに毛利勢、荒隈帰陣の事
  • 毛利所々人数置く 並びに再び富田発向、端城落つるの事
第4巻
  • 山中鹿之助品川大膳富田川中嶋合戦の事
  • 尼子家臣毛利に降る 並びに宇山飛騨守中井駿河守讒せらるる事
  • 宇山飛騨守父子讒死 並びに大塚与三左衛門・座頭等誅せらるる事
  • 元就、謀を以て新宮党を誅す 並びに芸州似座頭の事
  • 新宮党父子横死 並びに敬久討死落書の事
  • 平賀太郎左衛門向城合戦の事
  • 元就公瘧病、尼子和平 並びに利害を以て異見の事
  • 尼子兄弟和睦し芸州下向 並びに義士評定離散の事
  • 尼子義久公室、尼となる事
  • 尼子勝久雲州へ攻め入り 並びに旧交馳け集まり敵城を攻め落とす事
  • 秋上伊織介富田敗軍 並びに山中鹿之助異見の事
  • 所々尼子方蜂起 並びに富田合戦の事
  • 小田助右衛門、雲石加勢をなり上らる 並びに討死の事
  • 隠岐守為清反心、三穂関合戦 並びに山中諫言の事
第5巻
  • 神西三良左衛門再び尼子方一味の事
  • 日登合戦 並びに市川経好三刀屋勢後巻の事
  • 毛利大勢攻め上り多久和城明渡し 並びに布部大合戦の事
  • 三笠城合戦 並びに放火落城、牛尾弾正忠戦死の事
  • 熊野城、高佐城明渡し 並びに平田、手崎軍、高瀬城兵糧の事
  • 元就公所労により諸軍勢芸州下向 並びに所々尼子方落城の事
  • 平野嘉兵衛、伯州尾高合戦 並びに討死の事
  • 山中鹿之助、尾高合戦 並びに馬田慶篤討死の事
  • 羽倉孫兵衛、米子合戦討死 並びに秋上反心毛利一味の事
  • 毛利元就公病死、山中鹿之助偽降参 並びに尼子勝久公隠州落ちの事
  • 山中鹿之助漂泊、社寺宝物押領 並びに因伯度々合戦の事
  • 木下藤吉郎秀吉、播州上月城加勢 並びに尼子勝久、氏久生害の事
  • 田中三郎左衛門 並びに熊野山物語評判の事
  • 大内、尼子、毛利三家盛衰評論の事

脚注

注釈

  1. ^ 永正17年(1520年) - 没年不詳。通称は大八。後に静楽軒を称する。
  2. ^ また、そもそも『雲陽軍実記』自体が天正8年(1580年)ではなく、後世に成立したとする説もある[3]
  3. ^ 明治37年(1904年) - 昭和63年(1988年)。『新修島根県史』の編纂にも携わった郷土史家。兄は勝田孝興
  4. ^ 勝田勝年は毛利武士と尼子武士の心情の相違や世相の相違の比較にも注目する必要があるとの考えも持っており、当時、毛利側では既に『陰徳太平記』が何度も刊行されていた一方で、尼子側では同様の史料が刊行されていなかったことを、『雲陽軍実記』の公刊を行った理由として挙げている[19]
  5. ^ 出版に際して「尼子毛利合戦」の文言を冠した理由として、明治時代に松江市周辺のみで出版された活字本とは異なり、初めて全国的に『雲陽軍実記』が刊行されることになるため、書名で内容を率直に示すために付与したと述べている[15]。なお、勝田勝年自身はその類例を先例としたわけではないとしているが、類例として、江戸時代に萩藩(長州藩)でまとめられた『閥閲録』を、昭和期に山口県文書館が活字本として出版する際に『萩藩閥閲録』と題して出版した事例がある[15]
  6. ^ 毛利輝元権中納言となったのは、文禄4年(1595年)1月6日[23]
  7. ^ 『雲陽軍実記』で尼子晴久の生没年を誤っていることに関して、永禄6年(1563年)の毛利隆元の急死を、晴久急死の翌年の出来事として記述している[28]ことから「永禄三年」を「永禄五年」と誤記したわけではないと思われる。
  8. ^ ただし、種子島に鉄砲が伝来する以前から鉄砲が伝来していたとする説もある。
  9. ^ 具体例として、経久と敵対した経久の三男・塩冶興久を「短慮我慢にして強勇不仁の人」と評しており、尼子氏から離反して大内氏に属した多賀通定を不義の武士と評して、その居城は荒廃して一門が流浪の末に横死したと記している[10]。同様に、上月城の戦いで尼子軍への援軍を撤退させた羽柴秀吉については不仁の士と評している[34]
  10. ^ また、尼子晴久に辛辣な評価をする傾向が見られ、尼子経久が孫の晴久は尼子氏の相続人として不適当であると評価したと記したり[10]、尼子氏滅亡の要因として「晴久公智浅くして近習小人の讒言を信じ、莫大の勲功ある者を追ひ退け、または死命を給ふ。骨肉同胞の新宮党を亡ぼし給ふ事、智なき故、讒口を信じ、仁なき故に親しきを恵まず、たまたま諫言あれども諫を納れず我意ばかりに政道を執り行ひ給ふによりて、大老旧臣奉行頭人も其の職分の名のみありて道を行ふ事能はず、幕下も籏下も常に疎遠にして賞を軽んじ、罰を重んじ給ふにつき、頼み少なく思ふ武士、或ひは敵となり、または降礼を他国にして見限り出奔す。これ尼子家智仁に闕け、猛威ばかりにて終に亡ぶべき失害なり」と記している[35]

出典

  1. ^ a b c d 勝田勝年校注 1978, p. 37.
  2. ^ a b c d e 勝田勝年校注 1978, p. 289.
  3. ^ 吾郷義 1982, p. 30.
  4. ^ a b 勝田勝年校注 1978, p. 33.
  5. ^ a b c d 勝田勝年校注 1978, p. 20.
  6. ^ 勝田勝年校注 1978, p. 21.
  7. ^ 勝田勝年校注 1978, pp. 20–21.
  8. ^ 勝田勝年校注 1978, pp. 37–38.
  9. ^ 勝田勝年校注 1978, p. 13.
  10. ^ a b c 勝田勝年校注 1978, p. 17.
  11. ^ 勝田勝年校注 1978, pp. 13–14.
  12. ^ a b c d e f 勝田勝年校注 1978, p. 14.
  13. ^ 勝田勝年校注 1978, pp. 14–15.
  14. ^ 勝田勝年校注 1978, p. 15.
  15. ^ a b c 勝田勝年校注 1978, p. 11.
  16. ^ a b 勝田勝年校注 1978, pp. 15–16.
  17. ^ 勝田勝年校注 1978, p. 12.
  18. ^ a b 妹尾豊三郎 1973, p. はじめに.
  19. ^ 勝田勝年校注 1978, pp. 9–10.
  20. ^ a b 勝田勝年校注 1978, p. 16.
  21. ^ 勝田勝年校注 1978, pp. 19–20.
  22. ^ 勝田勝年校注 1978, p. 152.
  23. ^ 『毛利家文書』第359号、文禄4年(1595年)1月6日付け、後陽成天皇口宣案。
  24. ^ 勝田勝年校注 1978, p. 270.
  25. ^ 勝田勝年校注 1978, p. 280.
  26. ^ 勝田勝年校注 1978, p. 276.
  27. ^ 勝田勝年校注 1978, p. 19.
  28. ^ 勝田勝年校注 1978, p. 161.
  29. ^ 米原正義 2015, p. 195.
  30. ^ 陰徳太平記 1913, p. 532.
  31. ^ 勝田勝年校注 1978, pp. 115–118.
  32. ^ 勝田勝年校注 1978, pp. 234–235.
  33. ^ 勝田勝年校注 1978, p. 9.
  34. ^ 勝田勝年校注 1978, pp. 18–19.
  35. ^ 勝田勝年校注 1978, p. 287.
  36. ^ 勝田勝年校注 1978, pp. 17–18.

参考文献

雲陽軍実記

その他文献

関連項目


雲陽軍実記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 16:12 UTC 版)

弓浜合戦」の記事における「雲陽軍実記」の解説

合戦際し尼子軍は兵を2つ分けたのに対し毛利軍は兵を分けず挑んだ合戦は、尼子軍の将・森脇久仍本田家吉率い第1陣部隊と、毛利軍の将・杉原盛重率いるの2,000部隊との衝突により始まった。 この最初の衝突は、隘路地形たくみに利用して戦った毛利軍尼子軍圧倒した尼子軍第1陣敗れて引くと、次に入れ替わって戦ったのは第2陣控え山中幸盛立原久綱率いる1,000部隊であった。この第2陣尼子軍は、馬を四方立て弓鉄砲隊を密集させた九布陣敷いて毛利軍挑んだ。 この2度目戦いは、尼子軍毛利軍圧倒した毛利軍部隊維持できずに敗走始め、さらに10町(約10km)ばかり敗走した所で、第2陣後陣控えていた秋上宗信率い部隊横槍を入れられ、大崩となって壊走した。 壊走した毛利軍は弓浜(現在の鳥取県境港市米子市連なる弓ヶ浜半島。)まで逃げてくると、この地で部隊再編を図る。毛利軍の将・盛重は、小高い地に旗を掲げて敗軍の兵600700集めた。ところが、そこには尼子軍将・吉八郎左衛門率い遊軍伏兵部隊がいたため、さらに追撃を受け被害出しながら尾高城へと退却した

※この「雲陽軍実記」の解説は、「弓浜合戦」の解説の一部です。
「雲陽軍実記」を含む「弓浜合戦」の記事については、「弓浜合戦」の概要を参照ください。

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