上月城の戦いとは? わかりやすく解説

上月城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 09:56 UTC 版)

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上月城の戦い
戦争戦国時代 中国攻めにおける攻防戦
毛利氏による尼子残党討伐戦
年月日天正6年(1578年)4月18日~7月3日
場所播磨国上月城
結果:毛利軍の勝利、尼子氏滅亡
交戦勢力
毛利軍 尼子再興軍
織田軍
指導者・指揮官
吉川元春
小早川隆景
宇喜多忠家
尼子勝久
山中幸盛
羽柴秀吉
戦力
3万程 上月城籠城兵2,300〜3,000
羽柴軍1万程
宇喜多氏の戦い
船坂峠 – 明善寺天神山上月城 – 辛川 – 八浜備中高松城文禄碧蹄館慶長関ヶ原

上月城の戦い(こうづきじょうのたたかい)は、天正6年(1578年4月18日から同年7月3日まで播磨国上月城毛利輝元尼子勝久との間で行われた合戦である。

背景

上月城は小城ながら播磨美作備前の三国の国境に位置する堅牢な山城で、毛利氏に属していた赤松政範および宇喜多直家播州方面の軍事拠点としてこれを押さえ、毛利勢力圏の東方における事実上の最前線となっていた。しかし1577年(天正5年)、織田氏中国攻略に着手し播州に入ると、羽柴秀吉の攻撃を受け陥落(第一次上月城の戦い)。尼子勝久を担ぐ山中幸盛(鹿介)ら、織田家に属していた尼子氏再興軍がこの上月城の防衛を任された。その後一時は宇喜多氏が反攻によって奪還するも、再度織田軍の手に落ちている。

しかし羽柴秀吉は上月城の奪取後も、表向きは織田氏に臣従しながらも、立場を明確にしない別所長治小寺政職ら播州諸勢力の懐柔に手を焼いた。1578年(天正6年)2月もしくは3月、別所氏が毛利氏側へ離反すると、東播磨の諸豪族の大半がこれに同調し、別所氏の本拠・三木城の7500を中心に籠城戦の構えを取る(三木合戦)。一方、羽柴軍の進出によって大きく揺らぎ始めていた東方の勢力地盤を固め直すため、毛利氏も早急に大軍を派遣して別所氏を援護する必要に迫られていた。また、同時期に上洛行動を再開する予定であった同盟者の上杉謙信に呼応するという意図もあったと考えられる。

いずれにしても、この時点で織田氏・毛利氏の戦線における最重要拠点は三木城へと移り、両軍にとって上月城の戦略的価値は半ば失われたと言っても良い。

本来ならば毛利氏は即座に播磨に進入し、羽柴秀吉の本軍を背後から脅かすことで直接的に別所氏を支援するべきであったが、しかし当地における毛利軍の活動拠点を提供することになる宇喜多直家の要請を無視することができず(或いは播州での戦況が滞った際の退路を確保するため)、吉川元春小早川隆景の毛利首脳は直家が求める上月城の再奪還に応じることで、間接的に羽柴軍を牽制するという形を取った。

同月、総大将の毛利輝元吉田郡山城を出陣、山陽方面を担当する小早川隆景が三原城を出陣、山陰方面を担当する吉川元春も日野山城を出陣し、上月城攻略に向かった。備前の宇喜多直家は自らは出陣せず、弟の忠家を派遣。他に毛利村上水軍播磨灘に展開し、海上の封鎖も完了した。総動員兵力は3万以上とされ、播州・姫路城に駐留していた羽柴軍を遥かに凌ぐ規模であった。

合戦の経過

別所長治の離反、及び毛利本軍の出陣を受け、羽柴秀吉は直ちに織田信長へ援軍を要請。まず播州に近い摂津荒木村重の軍が合流するが、毛利軍がどこに現れるかは不明なままであった。この間に秀吉はしきりに毛利軍の動向を探る傍ら、三木城の攻略を開始し支城の野口城を陥落させている。一方の毛利軍は輝元軍が戦線から遠い備中高松城に本陣を置き、吉川元春・小早川隆景ら主力が上月城へ進軍。4月18日に包囲を開始する(第二次上月城の戦い)。上月城を守るのは尼子勝久を総大将とする山中幸盛尼子氏久尼子通久神西元通らの手勢2300〜3000にすぎなかった。

毛利軍が上月城に向かったとの報を受けた羽柴秀吉は、三木城の攻撃を継続させつつ、自らの手勢を率いて尼子軍支援のために高倉山に進出した。対して、圧倒的大軍で上月城を包囲した毛利軍だが、積極的に攻撃に出ようとはせず、陣城を構築し、深い空堀塹壕を掘り、塀を巡らして柵や逆茂木で防備を固めるという徹底ぶりで、完璧なまでの防御線を敷く。さらに連日法螺貝太鼓を鳴らし威嚇行動を行い、兵糧攻めで城兵の戦意を喪失させる方針を取った。

織田軍にはさらに織田信忠を総大将として滝川一益佐久間信盛明智光秀丹羽長秀細川藤孝といった顔ぶれの援軍が到着したが、信長の意図は三木城の攻略と毛利軍の足止めであり、神吉城志方城・高砂城といった三木城の支城攻略に力を注いだ。このため秀吉も上月城に手を出すことはできず、後詰めの見込みがない尼子軍は絶望的な状況に立たされる。

これを見かねた秀吉は6月16日京都へ向かい織田信長に指示を仰いだ。しかしあくまで播州平定を優先する信長の方針は変わらず、上月城の尼子軍は事実上の捨て駒として扱われた。やむを得ず高倉山の陣を引き払うことになった秀吉は尼子軍に上月城の放棄・脱出を促す書状を出したが、尼子主従はこれを黙殺し、徹底抗戦を選んだとされる。

6月25日、滝川一益・丹羽長秀・明智光秀が毛利軍に備えるため三日月山に布陣。羽柴軍・荒木軍は高倉山から書写山へ陣を移す。その際に熊見川(現佐用川)で毛利軍の追撃を受け、羽柴軍は大きな打撃を受けた。この戦いに参加していた毛利軍の武将・玉木吉保著作の『身自鏡』には退却した羽柴軍の陣前に「夏山に立てる羽柴の陣なれば、秋(安芸)風吹けば散り失せにけり」という歌が毛利軍兵士の手によって残されていたと記録されている。 (熊見川の戦い)

7月1日、尼子軍は城兵の助命を条件に開城・降伏し、7月3日尼子勝久尼子氏久尼子通久、そして勝久の嫡男である尼子豊若丸らが自刃した。尼子再興軍の中心的人物であった山中幸盛も捕虜となり、後に備後国に送られる途上、備中国成羽で殺害された。こうして70日に及んだ上月城攻防戦は幕を閉じ、武門としての尼子氏は完全に滅亡した。

なお、生存した尼子再興軍の残党勢力は、尼子氏一門格にして筆頭家老亀井氏を継いだ亀井茲矩に率いられる形となり、本能寺の変後も秀吉麾下にて鳥取城攻略・朝鮮出兵参陣と転戦を重ね、因幡国鹿野・転封を経て石見国津和野を拝領、津和野藩(四万三千石)として幕末まで続いた。

戦後の影響

毛利氏はこの戦いによって本格的に織田氏との戦争状態に入り、同年7月に荒木村重石山本願寺と連携して織田氏から離反(有岡城の戦い)、続いて小寺政職が離反し、播州一帯は一時的に毛利氏が勢力を盛り返す。しかし毛利軍はついに積極的攻勢に出ることはできず、守勢・支援に徹して領土の保全に努めた。同年11月に第二次木津川口の戦い毛利水軍が大敗、1579年(天正7年)10月に宇喜多直家の離反という毛利氏が危惧していた事態が起こるとその勢力圏は大きく後退し、同月に荒木村重が、翌1580年(天正8年)には小寺政職が滅ぼされ、さらに長年織田軍を釘付けにしてきた石山合戦の終結により信長包囲網が崩壊する。

この間、羽柴秀吉は2年に及ぶ兵糧攻めの末に三木城を落とし(三木の干殺し)、兵力を整えて中国攻めを推進する。ほぼ独力で織田家との戦いを継続せざるを得なくなった毛利氏は和睦の道を探るが、両軍の争いは本能寺の変が起こる1582年(天正10年)まで続いた。

関連項目


上月城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/25 14:05 UTC 版)

上月景貞」の記事における「上月城の戦い」の解説

「上月城の戦い」も参照 天正5年1577年12月上月城であった赤松政範赤松政元の子)は、播磨の諸豪族織田信長従属する姿勢見せる中、周辺豪族引き連れて織田氏敵対する毛利氏与していた。政範は、毛利氏であった宇喜多氏援兵受けて織田軍に抵抗したが、信長配下である羽柴秀吉軍猛攻曝され敗死し、城も羽柴軍が接収するになった上月城城番は、毛利氏主家滅ぼされた後織田軍に加わっていた旧尼子氏家臣山中幸盛指名された。幸盛はこれを尼子氏再興機会捉え当時京都にいた尼子氏庶子尼子勝久を城に迎え入れたこの前後、尼子軍宇喜多軍の間で上月城奪い奪い返され続いたが、天正6年1578年1月宇喜多軍はいよいよ主力軍を上月城派遣して攻撃開始した形勢不利と見た幸盛は羽柴秀吉相談の上一時城を放棄して撤退し上月城は再び宇喜多軍のものとなった宇喜多直家は元上月城主の家柄であった景貞を上月城の守将に指名し家臣矢島五郎七を副将に付け上で1,500騎を与え、景貞は自身の兵と合わせて2,000騎で上月城入城した同年3月羽柴軍は秀吉率い本隊尼子軍引き連れて再び上月城包囲した秀吉本隊尼子軍別働隊三手分けて上月城包囲したという。景貞は宇喜多軍に援軍求めつつ防戦努めたが、宇喜多氏から派遣されていた寄騎江原親次兵庫助)が羽柴軍に内応したため城内混乱し、景貞も親次に射撃されて傷を負った。その隙を狙い、幸盛や羽柴軍の武将小寺孝高らの軍が城内押し入ったため、景貞は城を諦めて城外へと逃れた。景貞は同郡櫛田まで逃れたが、そこで自害し果てたとされる。景貞の死後上月城は再び尼子軍入ったが、さらに毛利軍交えた上月城の戦いによって尼子氏もまた滅び事となる。 景貞の死後、景貞室二人遺児が、妹の夫であった黒田孝高によって保護された。このうち女子小早川秀秋家老・平岡頼勝の室となり、男子・正好(次郎兵衛)は黒田家家臣禄高2,800石余)として取り立てられ黒田氏改姓し従兄弟である黒田長政旗本となる。正好は文禄の役朝鮮へ参陣し文禄元年1592年6月15日平壌での大同江の戦いにおいて敵の矢に撃たれ戦死したが、男子一人おり、元服後は景好(市右衛門)と称して福岡藩士となったまた、上月城物語』の著者・竹本春一によると、景貞には他に清景(右衛門佐という名の男子がいたとされる。清景は天正6年1578年3月の上月城落城後に一族と共に姫路移住し、景貞と戦った羽柴秀吉憚って国府着(こうづき)氏に改姓しており、子の満景(新左衛門尉豊宗)は天正10年1582年)、当時姫路城であった秀吉の命により播磨国総社射楯兵主神社)の神主となり、以後累代にわたり同社神職姫路藩士を兼帯して命脈保ち明治維新まで続いたという。

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