河原山城の戦いとは? わかりやすく解説

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河原山城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/27 05:06 UTC 版)

河原山城の戦い(かわらやまじょうのたたかい)は、天正13年(1585年7月伯耆国汗入郡の河原山城で起きた合戦。一部の書籍では香原山城の戦いともいわれる。『陰徳太平記』では南条元続が河原山城を直接攻撃したとされているが、元続は実際に出兵を行ってはいない。


  1. ^ 京芸和睦により南条氏には東伯耆3郡(八橋城のある八橋郡を含む)が与えられたが、八橋郡の重要な軍事拠点である八橋城を毛利氏が管理することは南条氏の八橋郡支配に何らかの影響が出ることは明らかであった。加えて天正10年に毛利一族の吉川氏によって羽衣石城を落城させられたトラウマを持つ南条氏にとって、所領内に毛利氏の軍事拠点が存在することはなんとしてでも避けたいものであったことと思われる。これらの理由が南条氏を八橋城回復のために奔走させたと推察される。
  2. ^ 行松氏は元守護山名氏の血を引く国人であり、永正から天文年間にかけての尼子氏の伯耆侵攻で尾高城を追われていた。
  3. ^ 南条・毛利間の争いはこれ以後確認されていないが、毛利氏はこれを教訓に出雲国十神山城を強化するなど対策を行っている。なお、天正20年(1592年1月12日の段階で毛利氏は伯耆国内に尾高城黒坂城手間城法勝寺城、日野の5ヶ所のを保有している。天正13年春の時点で南条氏が奪回した八橋城の名は見えないことから、毛利氏は八橋城を取り戻す行動には出ていなかったことが分かる。


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