戦いの経過
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222年9月、孫権が孫登を人質に差し出さないのを理由に曹丕は呉討伐を開始した。曹丕は自ら指揮を執り許昌から出撃、他の諸将の軍も一斉に南下を開始した。11月には曹丕は宛城に入りこれを本営とし、曹休・張遼・臧覇の軍を洞口に、曹仁の軍を濡須口に、曹真・夏侯尚・張郃・徐晃らの軍を江陵にそれぞれ派遣した。 これに対して呉は呂範等の軍を洞口に派遣し、濡須口では守将の朱桓が防衛の指揮を執った。江陵では朱然が城に篭り防衛指揮を執り、孫盛の軍が朱然の救援に派遣された。
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戦いの経過
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1856年、武装蜂起軍は雲南の西部都市大理を占領しそこを本拠地とし、清朝からの独立を宣言し回教自治政権である、平南国を樹立した。彼らの指導者杜文秀はスレイマン・イブン・アブド・アッラフマーンと称したが、一般的にはスルタン・スレイマンとして知られている。 武装蜂起軍は1857年、1861年、1863年、1868年の4回にわたって雲南省の省都昆明を包囲攻撃した。雲南南部出身で回族の武装蜂起軍指導者馬如龍も1862年に昆明を攻撃したが、清朝から軍のポストを提示されて寝返った。彼の部下の一部はこれを不満に思い、1863年に彼の不在に雲貴総督の潘鐸を殺し昆明を奪取し、杜文秀に引き渡そうとした。しかし杜文秀の軍が着く前に馬如龍が清朝の岑毓英の支援を受け昆明の支配権を取り戻した。 その後、清朝政府側に寝返った回民や、漢民族の民間人から成る軍隊によって清朝は情勢を維持し続けた。フランス製の大砲を四川省から輸送するなどヨーロッパの新式の武器を用いたことで戦局は清朝の側に有利に傾き、武装蜂起軍はイギリス帝国のヴィクトリア女王に書信を送り国家としての承認および軍事支援を願ったが、拒否された。1871年末には武装蜂起軍の拠点は、杜文秀がいた大理しか残されていなかった。清朝政府の依頼で武器商人として訪れていたフランス領事のエミール・ロシェルが当時の見聞に基づいて書き残した『中国雲南省誌』によると、政府軍が大理まであと3里に迫った時に杜文秀が武装蜂起軍に対して停戦を命じたという。1873年1月15日、杜文秀は政府軍の営地に向かった。到着した時には杜文秀はすでに失神しており、その日の夕方に死亡した。
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戦いの経過
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この戦いの模様を伝える当時の史料は少なく、以下は主に後世成立の史料や軍伝・軍記による。 天文14年9月26日(1545年10月31日)、関東管領の山内上杉家(上杉憲政)、扇谷上杉家(上杉朝定)、古河公方の足利晴氏、その他関東諸大名連合軍は約8万の大軍をもって北条氏の河越城を包囲した。一説によれば関東の全ての大名家が包囲軍に参加して、加わらなかったのは下総の千葉利胤のみだったともいわれている。山内憲政は城の南に陣を張り、扇谷朝定は城の北、など三方を包囲した。河越城は氏康の義弟・北条綱成が約3,000の兵力で守備していたが、増援がなければ落城は時間の問題であったため、今川との戦いを収めた氏康は本国から約8,000の兵を率いて救援に向かった。またこの間太田資顕(全鑑)の調略に成功し、河越城へのルートを確保している。食糧を十分に蓄え籠城した綱成は半年も耐え抜き、戦況は数ヵ月間膠着状態であった。この間、長陣に飽きて上杉方の戦意は低下し、軍律は弛緩していた。氏康の救援軍にいた福島勝広(北条綱成の弟)が使者を申し出て、単騎で上杉連合軍の重囲を抜けて河越城に入城、兄の綱成に奇襲の計画を伝えた。 氏康は連合軍に対して偽りの降伏を申し出て詫び状を出し続ける。まず、足利晴氏に対して、諏訪左馬助に依頼し、「城兵を助命してくれれば城は明け渡す」と申し入れ、上杉方には常陸の小田政治の家臣である菅谷貞次に依頼し、「綱成を助命してくれるならば開城し、今までの争いについても和議の上、我らは公方家に仕える」と申し入れた。だが上杉軍は受け入れず、逆に北条軍を攻撃したが、氏康は戦わずに兵を府中まで引いた。これにより上杉連合軍は北条軍の戦意は低いと判断し、およそ10倍近い兵力差もあって楽勝気分が漂う。 天文15年4月20日(1546年5月19日)の夜、氏康は自軍8,000を四隊に分け、そのうち一隊を多目元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。そして氏康自身は残り三隊を率いて敵陣へ向かう。子の刻、氏康は兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせ、山内・扇谷の両上杉勢の陣へ突入した。予期しない敵襲を受けた上杉勢は大混乱に陥り、扇谷上杉軍では当主の上杉朝定、難波田憲重が討死、山内上杉方では上杉憲政はなんとか戦場を脱出し上州平井に敗走したが、重鎮の本間江州、倉賀野行政が退却戦で討死した。氏康はなおも上杉勢を追い散らし敵陣深くに切り込むが、戦況を後方より見守っていた多目元忠は危険を察し、法螺貝を吹かせて氏康軍を引き上げさせた。城内で待機していた「地黄八幡」綱成はこの機を捉えて打って出ると、足利晴氏の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入した。既に浮き足立っていた足利勢も綱成軍の猛攻の前に散々に討ち破られて本拠地の古河へ遁走した。一連の戦闘による連合軍の死傷者は1万3,000人から1万6,000人と伝えられている。 以上、中の( )の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除き全て和暦、宣明暦の長暦による。
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戦いの経過
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661年5月、第一派倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人だった。 662年3月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。 663年(天智2年)、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。 百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍7,000名を派遣した。唐・新羅軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁願及び新羅王の金法敏(文武王)が指揮した。劉仁軌、杜爽及び元百済太子の扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃した。 一方の大和朝廷側は強力な権限を持った統一指揮官が不在であり、作戦も杜撰であった。唐と比較して対外戦争経験も乏しく、加えて全体兵力も劣っていた。前述されたように、百済側の人員も意思統一が全くされておらず、この時点で内紛を起こしているような状態であった。
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戦いの経過
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マルドニオスの主力部隊であるペルシア軍(ペルシア人、メディア人、そしてインドやバクトリアなどからなる外国人)が一斉にスパルタ軍に襲いかかった。しかし、マルドニオスの追撃命令は急であったため、戦列は乱れており、攻撃も散発的であった。ギリシア傭兵軍を除くペルシア全軍がスパルタ軍に矢玉を集中的に射かけていることを確認したパウサニアスは、すぐさま左翼のアテナイに応援の要請を出し、自身はこの戦いにおける吉凶を占った。一度目の占いでは凶と出たため、スパルタ軍に応戦するのを禁じ、再び吉凶を占った。スパルタ軍はこの間防戦一方であったが、敵の乱れた戦列のおかげで死傷者は数名程度に留まった。 一方、アテナイはスパルタの要請を聞き、ペルシア軍に包囲されつつあったスパルタ軍へと急行しようとした。しかし、敵右翼に配置されていたギリシア傭兵軍がアテナイ軍へと突撃し、アテナイ軍はギリシア傭兵軍と交戦せざるを得なくなり、スパルタへ応援に向かうことは不可能となった。 パウサニアスは二度目の占いで遂に吉を得ることができた。この瞬間にスパルタ全軍に攻撃命令を下し、それを聞いたスパルタ軍は瞬時に隊列を整えて雄叫びを上げた。今まで無抵抗だったスパルタ軍が一斉に隊列を組んで咆哮したことでペルシア軍は混乱し、浮き足だった。スパルタ軍は一転して猛攻撃し始め、装備と練度で劣るペルシア軍はまるで歯が立たず、スパルタ軍に蹂躙された。それでも遥かに数で勝るペルシア軍はその重圧でスパルタ軍を潰そうと休みなく押し寄せ、スパルタの長い槍を掴んではへし折って無力化しようとした。スパルタ軍は槍が折れたら短剣を引き抜いてペルシア軍に立ち向かった。戦闘は熾烈を極め、長きにわたったが、スパルタ軍は数の差をものともせずにペルシア軍を押し返した。マルドニオスは1,000名の親衛隊と共に戦場で指揮をとっていたが、スパルタ軽装歩兵の放った飛礫によって命を落とした。指揮官を失ったペルシア軍はますます劣勢となり、遂には敗走した。 後退した諸ポリス連合軍は戦争に参加すらせず、アテナイは依然としてギリシア傭兵部隊に足止めされていた。結果として、30万と伝えられるペルシア全軍を、それに比べれば遥かに少数のスパルタ軍だけで打ち破るという凄まじい会戦となった。また、ペルシア将軍を討ち取ることによって、神託で告げられたレオニダスの復讐は果たされた。 敗走したペルシア軍は後方に築いていた野営地に逃げ込み、そこで籠城戦をすることになった。この野営地には城壁が設けられており、攻囲戦を得意としないスパルタ軍は苦戦していた。そこに、ギリシア傭兵部隊を下してアテナイ軍が合流し、不屈の精神で城壁を乗り越えて突入した。これを糸口にしてスパルタ軍も雪崩れ込み、ペルシアの野営地を攻略することに成功した。生き残った僅かなペルシア兵はテーバイへと逃げ込んだ。
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戦いの経過
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1967年4月から5月にかけてケサン基地周辺で小規模な衝突があったが、北ベトナムが1968年1月31日からのテト攻勢に備えて本格的に同地の攻略を開始したのは1968年1月中旬からだった。北ベトナムの正規軍第304師団が基地の西方から、第325師団が基地の北方から砲撃開始と同時に塹壕により、アメリカ海兵隊2個連隊と南ベトナム政府軍レンジャー部隊が守るケサン基地に迫った。もともとケサン基地の東は北ベトナム軍の支配下にあり、2万の兵力で西と北を圧迫されたアメリカ軍は補給路を断たれ、15年前のインドシナ戦争でフランス植民地軍が一敗地にまみれたディエン・ビエン・フーの戦いと同じように空路での補給を余儀なくされた。 1月31日からのテト攻勢開始以降、守りが後手に回ったアメリカ軍に対して、北ベトナム軍は人的被害を省みず積極的に攻撃を加え、2月の中旬には北方に控えていた師団予備兵力3,000の投入も行われ、一時は戦力比が4倍にもなる兵力を投入した。これに対しアメリカ軍は77日間の戦闘期間中に1,120回にも及ぶ物資の空輸を行い、兵力投入がままならない中で空軍、海軍、海兵隊の各航空部隊が協力し延べ2,700ソーティーにも及ぶボーイングB-52戦略爆撃機 による航空作戦「ナイアガラ」を実施し約114,000トンの爆弾を投下、攻める北ベトナム軍に出血を強いた。この爆撃によりケサン基地攻撃に加わっていた北ベトナム軍約5,000名が死亡したとされる。また、4月に入るとようやく戦力に余裕の出てきたアメリカ軍が地上からのケサン基地解放作戦「ペガサス」を発令し、北ベトナム軍をこの地域からの撤退に追い込むことに成功した。
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戦いの経過
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ボイオーティア地方のアウリスに集結したアガメムノーンを総大将とするアカイア軍は、総勢10万、1168隻の大艦隊であった。アカイア人の遠征軍はトロイア近郊の浜に上陸し、アキレウスの活躍もあって、待ち構えたトロイア軍を撃退すると、浜に陣を敷いた。トロイア軍は強固な城壁を持つ市街に籠城し、両軍は海と街の中間に流れるスカマンドロス河を挟んで対峙した。『イーリアス』の物語は、双方に犠牲を出しながら9年が過ぎ、戦争が10年目に差し掛かった時期を起点に始まる。 戦争末期の状況については、『イーリアス』のほか、『アイティオピス』や『アイアース』において語られる。トロイアの勇将ヘクトールとアカイアの英雄アキレウスの没後、戦争は膠着状態に陥った。しかし、アカイア方の知将オデュッセウスは、巨大な木馬を造り、その内部に兵を潜ませるという作戦を考案し(『小イーリアス』では女神アテーナーが考案し)、これを実行に移した。この「トロイアの木馬」の計は、アポローンの神官ラーオコオーンと王女カッサンドラーに見抜かれたが、ラーオコオーンは海蛇に絞め殺され、カッサンドラーの予言は誰も信じることができない定めになっていたので、トロイアはこの策略にかかり、一夜で陥落した。
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戦いの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 18:01 UTC 版)
開戦が決まるとムハンマドはすばやくバドルに進軍し、要衝を押さえた。さらにメッカ軍の進軍路の井戸を先に埋めてしまった。井戸を失ったメッカ軍は、イスラム軍の守る井戸を奪取するため攻撃をくわえた。まずメッカ軍はアラブの戦いの恒例である一騎討ちによりウトバ・イブン・ラビア、アル・ワリード・イブン・ウトバやシャイバ・イブン・ラビアといった名だたる将を次々に失ってしまう。イスラム軍は動揺するメッカ軍に対し矢の雨を降らせ、陣形をしっかりと組んだ歩兵が突撃したためクライシュ族の盾で武装したメッカの正規兵は打ち破られ、かつてムハンマドを迫害していたクライシュ族の頭目アブー・ジャハル(ヒシャム)を含む70余名の戦死者を出してメッカの大軍は一敗地にまみれた。
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戦いの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/26 22:52 UTC 版)
「尼子再興軍による鳥取城の戦い」の記事における「戦いの経過」の解説
尼子再興軍の進攻に対し高信率いる武田軍が取った作戦は、鳥取城の地の利を生かした籠城戦であった。一方の尼子再興軍は、城を力攻めにする作戦に出た。 この鳥取城は標高263メートルの久松山に築かれた山城であり、急峻な自然地形を利用した要害であった。 そのため、尼子再興軍は山下より攻め上るも武田軍を打ち破ることができず、山麓において双方の軍が鉄砲・弓矢を打ち合うだけの日々が続いた。 城への攻撃の手詰まりを感じた幸盛は、この膠着状態を打破するため次の作戦を取る。 その作戦とは、兵を一斉に隙間無く並べさせて山下より攻め上り、武田軍の注意をこの兵に引きつけている間に一部の兵を山麓の城下町へと迂回させ、町中を通って城を攻撃するものであった。 この作戦によって、山下からの兵にのみ気を取られていた武田軍は予期しない町中からの攻撃に対処できず敗れ、山麓の陣を引き払って城内へと退却した。 山麓を占拠した尼子再興軍であったが、城内に引き上げた武田軍が本丸に陣を置き、城内の各所に兵を配置して防御を固めたため容易に攻め入ることができなかった。 正面より普通に攻撃しても城を落とせないと判断した幸盛は、別経路を進んで鳥取城を落とす作戦を考える。 幸盛は周囲の地形を調べあげると、天王の尾から山の尾根づたいに進めば、城の搦手(裏側)に出られることを発見する。 城を攻略するための新たな突破口を見出した幸盛は、兵を2つの部隊に分けると囮となる主力の部隊を城の大手(正面)から攻撃させ、自らは別部隊を率いて先の発見した城の裏側へ通じる道を進んで本丸を急襲した。 この尼子再興軍の予期せぬ方向からの攻撃により本丸が攻略されそうになった武田軍は、城の各所に配置していた陣を引き上げ山頂にほど近い十神の社(十神砦)に集結して防戦する。 奇襲に成功した尼子再興軍であったがその後、麓から攻め登った部隊と合流して攻め続けるも、武田軍の必死の抵抗により十神砦を攻め破ることはできなかった。尼子再興軍は攻撃を中止し、城下まで退却する。 しかしながら、尼子再興軍が引き続き城を包囲して圧力をかけ続けたところ、城内の武田軍の中から逃亡者・投降者が相次いだため、同年9月下旬、高信は、これ以上戦うことはできないと判断して城を開放し投降する。 降伏に際して高信は、自身の息女を尼子再興軍に人質として差し出し、自らは弟の又三郎が籠もる鵯尾城へと退却した。
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戦いの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/04 23:34 UTC 版)
斎藤利治率いる織田軍は姉小路氏(三木氏)の支援を受けて、飛騨国より越中南部に進出した。 先ず津毛城を攻略すると神保長住勢に守備を任せ、さらに北進して今泉城を攻めた。しかし同城の守りは堅く、夜半になり撤退を開始した。撤退する織田軍に対し、河田長親、椎名小四郎率いる上杉軍は城を打って出て織田軍を追撃した。 斎藤利治は地形の複雑な月岡野まで上杉軍を引きつけ、同地で一挙に逆襲に転じ、首級360を討ち取り、三千人以上捕捉し勝利を得た。 後から姉小路頼綱が飛騨から長棟越えで越中に入り合流した。 その後今泉城も攻略し、富山城を奪還し越中国に織田方の橋頭堡を築いた。 信長や信忠は利治に感状を与え、加増を行って戦功を称えた。
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戦いの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 14:49 UTC 版)
戦いは朝方に始まった。マンフレーディはまだ十分な準備が整っていなかったが、彼のサラセン人部隊は橋の向こうでシャルルのフランス人部隊と交戦を開始した。サラセン人部隊はシャルルのフランス人部隊を圧倒したが、そこにプロヴァンスの騎兵部隊が突入すると、たちまち蹴散らされた。これを見たマンフレーディのドイツ人騎兵部隊は命令を待たずに突撃し、シャルル・ダンジューは第二陣の騎兵部隊も戦線に投入した。数に劣るものの、強固な装甲によって武装したドイツ人騎兵は、シャルルの騎兵の剣を全く通さず、戦いの趨勢はわからなくなった。しかしやがてドイツ人騎兵が剣を振り下ろす際に脇の下が無防備になることが発見されると、シャルルの軍はそこを突いて攻撃し、ドイツ騎兵はたちまち劣勢に立たされた。このときすでにマンフレーディの敗北が見え始めていた。 ドイツ人騎兵の強さを過信していたマンフレーディ軍は、第二陣の騎兵を投入する機会を失した。ガルヴァーノ・ランチア指揮の第二陣がようやく渡河を終えたとき、目の前にドイツ人騎兵部隊を屠って勢いづいたフランス人騎兵部隊が殺到した。シャルル・ダンジューはさらに最後列に控えていた予備部隊にマンフレーディ軍の側面を攻撃させ、マンフレーディ軍は潰走した。マンフレーディは予備部隊に攻撃を命じたが、一部始終を見て恐怖を覚えた予備部隊は戦場から逃げ出し始めた。マンフレーディはわずかな護衛とともに戦場に孤立した。覚悟を決めたマンフレーディは戦闘のただ中へと突入し、混戦の中で戦死した。夕方頃にはシャルル・ダンジューの勝利は確実なものとなっていた。
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戦いの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 17:28 UTC 版)
当初、拉孟守備隊の主力である歩兵第113連隊は、2800名ほどいた。ところが3か月前に拉孟北方に現れた敵軍のために兵力を割かなければならなかったなどしたため、雲南遠征軍が包囲したときにはその半分にも満たなかったのである。そのときの守備隊の陣容は次のとおりである。 歩兵第113連隊の一部400名 野砲兵第56連隊第3大隊380名 輜重隊第16連隊第1中隊の一部60名 第56師団衛生隊第3中隊100名 第56師団防疫給水班の一部40名 前線にて負傷した兵300名 10センチ榴弾砲8門・山砲2門・速射砲2門・高角砲4門 負傷した兵を除くと、まともに戦える戦闘員は実質1000名に満たなかったが、福岡県出身の現役兵を中心とする56師団は通称「龍兵団」と呼ばれ、同じく福岡県の第18師団「菊兵団」と並び、日本軍最強とも言われた部隊であった。一方、拉孟を包囲した敵戦力は、蔣介石の直系栄与第1師団(日本の近衞師団に相当)を中心とする5個師団。この軍は、新式装備・兵の質もきわめて優秀な精鋭部隊であった。 兵力48000名 15センチ榴弾砲7門・山砲、速射砲74門・重迫撃砲、迫撃砲332門 敵対比率は50倍以上も開きがあったにもかかわらず、拉孟守備隊は死守を命じられ、100日間も粘り強く戦闘が行われたのである。
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戦いの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 01:17 UTC 版)
高信の挙兵当初、布施屋形勢は高信と十分に対抗し得る力を有していた。強大化する武田勢を警戒した豊数は鳥取城を攻撃して武田勢を一気に叩こうと計画を立て、4月3日、秋里氏・橋本氏・別所氏らを先陣に中村伊豆守豊重を大将と定めて、現在の鳥取市秋里の方面から城下の湯所口へ兵を進めた。これを迎え撃つ高信は城下へ乱入されまいとして、久松山(きゅうしょうざん)を下り抗戦した。両者一進一退の激戦が続いたが、中村伊豆守の軍勢の一部がついに木戸を破って城内へ侵入し、一気に攻め入った。布施側の勝利は目前かと思われた頃、武田勢によって城内に仕掛けてあった鉄砲が一斉に攻め込む布施勢に放たれた。突然のことに布施衆が混乱する中、一発が大将の中村伊豆守に命中し、武田勢によって討ち取られた。中村伊豆守の討死や武田勢の猛攻により優勢であった布施屋形勢は押し戻されて劣勢へと転じ、最終的に戦いは武田勢の勝利に終わった。
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戦いの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 06:02 UTC 版)
大ブルガリア崩壊後、アスパルフに率いられたブルガール人の一派は、ドナウ川を越えて東ローマ帝国領内に侵入して略奪をおこなっていた。その頃、東ローマ帝国はウマイヤ朝との戦争で忙殺されており、ブルガール人の侵攻に対応することはできなかった。しかし、680年にようやくアラブ人との戦争を終わらせたコンスタンティノス4世は、ブルガール人の本拠地であるオノグロスへ親征を行った。対するブルガール人は、木造の砦を建設して侵攻に備えた。東ローマ軍はこの砦を落とすことができず、戦いは長期化した。そしてコンスタンティノス4世をはじめ、多くの兵士が伝染病に感染したため、東ローマ軍は撤退し始めた。ブルガール軍はそれを見逃さずに追撃を行い、東ローマ軍を壊滅させた。
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戦いの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 06:43 UTC 版)
ボイオティア軍を率いるエパメイノンダスは、当時のギリシアにおいて常識的だった右翼を最強にという配置方法に反して、自軍の左翼に兵を集中させた。その厚みは50列もあり、対するスパルタ軍の厚みは12列であった。この配置はペロポネソス同盟軍の最右翼に位置し、また同軍の中核でもあるスパルタ軍を重点的な目標としたものだった。少数精鋭であるスパルタ軍を集中的に叩き、戦列の厚さで強引に突破する作戦であった。他方で左翼に戦力を集中させたことから中央・右翼の戦列は薄弱なものとなったため、これらの集団は行進速度を左翼と比べて遅くし、敵との接触を遅らせる措置を取った。結果戦闘開始後は戦列が左翼を先頭に斜めに伸びることから、この陣形は斜線陣(「梯形陣」と呼ばれることも)と称されている。 戦闘開始後、まず双方の騎兵同士がお互いの主力(ボイオティア左翼、ペロポネソス右翼)の前で衝突するが、これはペロポネソス騎兵の自軍戦列に向かっての敗走とそれによる戦列の混乱という結果を招いた。それでもスパルタ軍は隊列を維持し、更にテーバイ軍への側面攻撃を行うために包囲隊形(半月陣)へと徐々に変化させていった。ペロピダスはスパルタが半月陣を展開しようとしているのを見て、それを防ぐために神聖隊と共に突撃した。スパルタ軍は側面包囲を神聖隊によって阻まれたまま、分厚いテーバイ軍の戦列へと激突した。激しい戦いが繰り広げられた。初めのうちはスパルタ軍が優勢であったが、敵戦列の分厚さに次第に劣勢となり、最終的にはボイオティア軍左翼集団の戦列の厚みに押し潰される形で敗走した。このスパルタ軍の敗走によりペロポネソス同盟軍の中央・左翼は後退を開始し、ボイオティア軍の勝利が確定した。この戦いでペロポネソス同盟軍を率いたスパルタ王クレオンブロトス1世は敗死した。
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戦いの経過
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アンティオコス3世は、両翼に重装騎兵カタフラクトイを配備していた。カタフラクトイは当時トップクラスの攻撃力を誇っており、攻めの時であればほとんど無敵であった。彼の作戦は、カタフラクトイを用いてローマ軍の騎兵隊をいち早く撃破し、カンナエの戦いのようにローマ軍を包囲・殲滅することであった。一方、ローマ軍はセレウコス軍を過小評価しており、ただ正面突破のことしか考えていなかった。 このまま戦いが始まれば、セレウコス軍の勝利は確実であっただろう。しかし、突然周囲に霧が生じ、戦場は全く見えなくなってしまった。視界が狭まったため、セレウコス軍の弓兵部隊はほぼ無力化されてしまった。これを利用し、ローマ軍右翼のエウメネスはクレタ軽装歩兵部隊に敵左翼を奇襲させた。この奇襲によってセレウコス軍の鎌戦車は自軍に突っ込んでしまい、セレウコス軍左翼は大混乱に陥った。 奇襲時に起こった喧噪を、アンティオコス3世は自軍の左翼が敵軍に突っ込み、計画通り蹂躙しているものと思い込み、自らのいる右翼も出撃した。ローマ騎兵が迎え撃ったが、カタフラクトイの圧倒的な攻撃力の前に瞬殺され、一気にローマ軍団に突っ込んだ。ローマ軍団と言えどもカタフラクトイの猛攻の前には歯が立たず、敗走してしまう。アンティオコス3世は彼らを追撃し、野営地まで追い詰めた。 ここで、野営地を守備していたマケドニアのファランクス(ローマと同盟を結んだ折、ペルセウスが送った重装歩兵)がセレウコス軍のカタフラクトイに立ち塞がった。ローマ軍団を蹴散らしたカタフラクトイであったが、ファランクスの頑強さを崩すのは簡単ではなく、一進一退が続いた。 この時、セレウコス軍左翼はローマ軍団・騎兵によって崩壊しており、セレウコス軍中央も包囲されていた。カタフラクトイは左翼にも配備されていたが、機敏な動きのできない彼らは守りには適しておらず、敗れ去っていた。セレウコス軍中央のファランクスは中空方陣を組み、ローマ軍団の攻撃を跳ね返していたが、自軍の戦象部隊が苦痛によって暴れ出したために戦列が崩れてしまった。ファランクスを突破できなかったアンティオコス3世が再び戦場に戻った時には、最早セレウコス軍は戦線を維持することができなくなっていた。この時、アンティオコス3世の持つカタフラクトイで攻めていれば、まだ勝機はあったかもしれない。しかし、彼は戦意喪失してしまい、撤退した。
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戦いの経過
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反乱を起こした管叔鮮と蔡叔度はまず、周公旦への対抗を大義名分に、三監の残る一人、霍叔処を取り込んだ。彼らと殷の遺民の反乱軍には、南東部に位置する多くの独立志向の諸侯も加わった。周王朝の東方領域の多くの諸侯は、周王朝に反対して立ち上がった。それらの諸侯の中には、戦略的に重要な地域を支配している国もあった。例えば、反乱軍に加担した應は、洛陽平原につながる潁河(中国語版、英語版)渓谷の出口の近く、南陽盆地(中国語版)の入口のすぐ近くにあり、長江中部への道路を管理していた。さらに、反乱軍はいくつかの外部の同盟国を得ることができた。殷の強力な支援者である薄姑(中国語版、英語版)と奄(中国語版)に率いられ、山東省の諸侯国のほとんどは反乱軍の勢力に加わった。また、淮河地域を支配し、周や殷とのつながりがほとんどない淮夷族さえもが反乱軍に加わった。それらの中には徐も加わっていて、周王朝の最大の敵の1つにまで成長した。 しかしながら、東方の諸侯も全てが反乱に加担したわけではなかった。微子啓率いる宋や、召公奭の子の燕侯克率いる北燕 等は周王朝に味方した。また前述した東夷の薛も殷王朝の復活を望んでいなかった。『史記』は周王朝側に助勢した諸侯として斉と魯を挙げているが、同様の内容を示す文献などの考古学的資料が存在しないため、これが史実であるかは不明である。 反乱が周王室に伝えられると、成王は鎮圧するかどうかを決めるために卜占を行った。結果は「吉」と出たが、側近のほとんどは、鎮圧の難しさと、民心が安定していないことを考慮して、無視するように進言した。成王は困難であることは認めながらも、卜占の結果、すなわち天命に反することを拒んだ。このとき、東方の制圧に熱心な周公旦は、おそらく周成王の決定を支持しただろうと考えられている。 周王朝は自らの軍勢を動員するために多くの時間を必要とするだけでなく、渭水谷を越えて東方に進軍するためには短くとも2ヶ月は必要であったため、反乱の初期において、東方の周王朝派の諸侯は、多勢である周囲の反乱側諸侯との戦闘に耐えなければならなかった。このため、反乱軍はほぼ1年間、抵抗らしい抵抗を受けなかった。しかしながら、長い期間を経て準備を整えた周公旦と召公奭は、反乱鎮圧のため2度目の「東征」を開始した。なお、当時の青銅器の碑文には、成王自身が司令官として討伐軍を率いたと記されていて、王が幼年であったとする後世の史書を否定する材料となっている。 討伐軍は文王・武王の軍師であった太公望の支援を受けて、反乱の2年目には激しい戦いの後に殷の遺民の軍を駆逐し、殷を完全に滅ぼすとともに、武庚を誅殺した。また三監の主力軍も敗北し、管叔鮮と霍叔処が捕虜となり、蔡叔度は亡命したか追放された。管叔鮮は処刑され、霍叔処は爵位を剥奪した上で平民に落とされた。周公旦は勝利の後も、周王朝の辺境に位置するの反乱軍の同盟国に更なる圧力をかけ、討伐を行った。反乱軍の敗北後すぐに、周王朝軍は現在の山東省に進軍し、周公旦は自ら軍を率いて逄と薄姑を討伐した。奄も周王朝軍によって攻撃されたが、この時は抵抗することができた。3年目には、成王と周公旦が率いる周王朝軍が淮族に対して遠征を行い、その後再び奄を攻撃し、ついにこれを下した。この結果、周公旦の軍勢は東方沿岸の諸部族を全面的に支配下に組み込み、周王朝の領域を大幅に拡大することになった。
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戦いの経過
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デロス島を訪れたレオテュキデス(アギス朝の王クレオメネス1世と組んでエウリュポン朝の先王デマラトスを追放し、スパルタ王位についた)率いるスパルタ海軍の許に、サモス島から使者が送られ、ペルシアに対する反乱の意図が伝えられた。この報を受けて、スパルタとアテナイの水軍はサモス島に上陸したが、ペルシア側は海戦を警戒してサモス島の防衛を放棄し、クセルクセス1世の命によってイオニアを防衛しているミュカレの駐屯軍に合流した。 ギリシア軍はミュカレに上陸し、対戦の準備を進めるペルシア軍と対峙した。この時、レオテュキデスはまだ勝敗が決していないギリシア本土でのプラタイアの戦いがギリシア方の勝利に終わったというデマを流し、軍の士気を上げた(後になってプラタイアの戦いはギリシア方の勝利に終わったことが知らされたため、レオテュキデスのデマは本当になった)。ペルシア軍は戦いに備えて反乱を警戒し、サモス人の武装を解き、イオニア人をミュカレ山頂に向かう街道警備に配置して本陣から遠ざけた。 アテナイ軍は、海岸沿いの平地を進んでペルシア本陣に進撃したが、スパルタ軍は丘陵部から迂回して本陣に接近したので、戦闘が開始された時にはスパルタ軍は参戦していなかった。アテナイ軍、コリントス軍、シキュオン軍、トロイゼン軍はスパルタに手柄を譲るまいと奮戦し、防壁を突破してペルシア人以外の異国人で構成された兵を潰走させた。ペルシア人からなる陸上部隊は最後まで戦い続けたが、スパルタとサモスの参戦もあって殲滅された。敗走したペルシア軍はイオニアの警備部隊を頼ったが、彼らはペルシア軍をギリシア軍の陣に誘導し、自らもギリシア側に加担してこれを殺戮した。
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戦いの経過
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戦いに先立ち、イングランド軍の左翼が後退するかに見せかけたため、フランス軍の騎兵はそれに誘われるようにして突撃し、戦闘が始まった。イングランド軍は、予測通り突撃してきたフランス軍に矢を雨霰と降り注がせた。ジャン・キル・シュタインは、イングランド兵の放つ鏃はフランス騎士の鎧上を滑り、衝撃は緩和され、フランス騎士を傷つけることはできなかったと書いている。ともあれ、騎兵の鎧を貫くのは困難であったが、馬の鎧は側面、あるいは後背からの攻撃には弱かったため、長弓部隊はフランス軍の側面に回り込むようにして馬を狙い撃ちにした。結果、第1陣は壊滅的打撃を受けて潰走した。これに続いて第2陣を率いた王太子率いる歩兵部隊が攻撃したが、再編成のために撤退した。それを見たオルレアン公配下の第3陣は恐慌状態に陥って敗走し、第4陣は進軍できず、しばし立ち往生することとなった。 この間に、イングランド軍は矢が不足したため、弓兵も剣を抜いて白兵戦に備え、歩兵の一部は騎乗して戦いに備えた。まだまだ脅威となる戦力を残すフランス軍との戦いは激しいものとなったが、イングランド軍には背後に隠しておいた騎兵部隊があった。騎兵部隊は戦場を迂回してフランス軍の側背面に回り込み、奇襲を仕掛けることに成功した。 包囲されることを恐れたフランス軍は逃走を試みたが、ジャン2世とその側近たちは捕虜となってしまった。
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戦いの経過
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228年12月(『三国志』曹真伝によると229年の春)、諸葛亮は漢中より出撃し、曹真の予測通り陳倉道を北上し陳倉城を包囲した。雍州に駐屯していた曹真は将軍費曜を派遣してこれを拒んだ。さらに洛陽では曹叡が張郃を召しだし3万の兵を与えて援軍とした。曹叡は張郃の到着が遅れたため陳倉が既に陥落しているのではないかと心配したが、張郃は陳倉城の防衛の堅さと蜀軍は食料をあまり携帯してきていないことを指摘して、援軍到着前に諸葛亮が撤退することを予測する一方、朝夜の強行で漢中南鄭まで進軍した。果たして以前からの備えがあった為、蜀軍は食料が尽き兵を引いた。以上が『三国志』明帝紀、曹真伝、張郃伝に見える経過である。 『三国志』では曹真の先見性が強調される一方、『三国志』に注釈として用いられた『魏略』では郝昭の武功が強調されている。諸葛亮が陳倉に攻め寄せると郝昭の同郷である靳祥を派遣して何度も降伏を呼びかけたが、郝昭は自身は必死の決意で事に当たっている事を述べ、これを帰らせた。数千程度のわずかな軍隊で諸葛亮の軍勢を寄せ付けず、頑健に防衛した。諸葛亮はまず雲梯(梯子車)・衝車(破城槌)を用いたが郝昭は火矢と石臼でこれを破壊した。次に井闌(攻城櫓)を使って城中に矢を射掛けさせた。これには城内に防御用の塀を作って防いだ。さらに地下に坑道を掘って城裏に出ようと試みるも、郝昭は城から横穴を掘ってこれを妨害した。20日余り郝昭はよく防衛して陳倉城はなかなか落城しなかった。果たして諸葛亮は食料が尽きたので陳倉攻撃を諦め撤退した。 諸葛亮が撤退すると魏の将軍王双は騎兵を率いて追撃するも蜀軍の反撃を受け敗死した(『三国志』諸葛亮伝)。 この後に郝昭は都に召され曹叡から労をねぎらわれて列侯に封じられた。さらに大きな地位に就けようとしたが、彼はすぐに病死してしまった。曹真はこの戦役の功績により領邑を二千九百戸に加増され、翌年には都に召されて大司馬に昇進した。張郃も洛陽に帰還し征西車騎將軍に昇進した。 三国志研究家の渡邉義浩は陳倉の戦いと後述の武都・陰平攻略までの間が短すぎること、蜀軍の携行した食糧が20日余り分と少なく、これでは陳倉を落としても先に進むことができないことから、この陳倉攻撃は武都、陰平を制圧するための陽動であったという見解を示している。
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戦いの経過
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天正7年(1579年)7月4日、安東氏の命を受け、比山六郎・七郎兄弟が津軽へと侵攻した。これに大浦為信から城を追われた滝本重行、北畠(浪岡)顕則らも参陣、浅利氏や大鰐、碇ヶ関方面の土民たちの協力もあり、軍勢は1千に膨れ上がった。 まず連合軍は、滝本重行の仇敵・乳井建清が城主を務めていた乳井城・乳井茶臼館・乳井古館に攻め入り、建清が留守であったこともあり3城は瞬く間に落城した。続いて沖館城に攻め入るも城主・阿部兵庫介の奮戦により、撤退した。 その後、六羽川の畔(現・青森県平川市)において大浦軍と激突した。連合軍は占領した乳井茶臼館、大浦軍は大坊・岩館に本陣を置いた。戦いは夕暮れまで続き、大浦軍は次第に追い詰められ、為信本陣の旗本もほとんどが討ち死にした。すると、本陣にいた田中太郎五郎が為信の身代わりとなって突撃、為信を討ち取ったと思い込み油断した連合軍は隙をつかれ、大将の比山六郎が討ち死にした。これによって、連合軍は総崩れとなって敗走し、大館に撤退した。
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戦いの経過
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「テルモピュライの戦い」の記事における「戦いの経過」の解説
テルモピュライは、古くからテッサリアから中央ギリシアに抜ける幹線道路で、峻険な山と海に挟まれた街道は最も狭い所で15メートル程度の幅しかなく、ペルシア遠征軍は主戦力である騎馬部隊を展開することが出来なかった。クセルクセスの命によってテルモピュライに突入したメディア・キッシア連合軍は、大量の戦死者を出しながらも終日に渡って戦ったが、ギリシア軍の損害は軽微なもので、彼らを敗退させることができなかった。 スパルタの重装歩兵を先陣とするギリシア軍の強さを目の当たりにしたクセルクセスは、ヒュダルネス率いる不死部隊を投入したが、優れた装備と高い練度を誇るギリシア軍を突破できなかった。ギリシア軍は、右手にペルシア軍のものを超える長さ2.5メートル以上の長槍、左手に大きな丸盾を装備し、自分の盾で左側の味方を守り、右側の味方に自分を守ってもらうファランクスを形成してペルシアの大軍と戦った。狭い地形を利用したファランクス陣形はまさに無敵であり、ペルシア軍の重圧をものともせずに押し返した。この時のスパルタの戦術は、敵前で背中を見せて後退し、ペルシア軍が追撃してきたところを見計らって向き直り、正面攻撃を行うというものであった。 翌日もペルシア軍はギリシア軍と激突したが、状況は一向に変わらなかった。ペルシア軍の損害は増える一方で、ギリシア軍を突破する糸口すら見出せなかった。クセルクセスは状況を打開できずに苦慮したが、ギリシア人からの情報によって山中を抜けて海岸線を迂回するアノパイア間道の存在を知り、これを利用してギリシア軍の背後に軍を展開することを命じた。ペルシアの不死部隊は土地の住民を買収し、夜間この山道に入った。この道を防衛していたポキスの軍勢1,000は、ペルシア軍に遭遇するとこれに対峙すべく山頂に登って防衛を固めたが、防衛する軍がスパルタ軍ではないことを知ったペルシア軍は、これを無視して間道を駆け降りた(一説に拠ると、夜道を登り来る不死部隊を見たポキスの軍勢は自国が襲撃されると思い、守備隊全員が帰国してしまったとも言われる)。夜が明ける頃、見張りの報告によってアノパイア道を突破されたことを知ったレオニダスは作戦会議を開いたが、徹底抗戦か撤退かで意見は割れた。結局、撤退を主張するギリシア軍は各自防衛線から撤退し、スパルタ重装歩兵の300人とテーバイ400人、テスピアイ兵700人の合計1,400人(またはスパルタの軽装歩兵1,000人を加えて2,400人)は、共にテルモピュライに残った。 朝になると、迂回部隊はギリシア軍の背後にあたるアルペノイに到達した。クセルクセスはスパルタ軍に投降を呼び掛けたが、レオニダスの答えは「モローン・ラベ(来たりて取れ)(英語版、ギリシア語版)」であった。 決して降伏しないスパルタ軍に対して、クセルクセスは午前10時頃に全軍の進撃を指示。レオニダス率いるギリシア軍もこれに向かって前進を始めた。それまでギリシア軍は、戦闘し終えた兵士が城壁の背後で休めるように、街道の城壁のすぐ正面で戦っていたが、この日は道幅の広い場所まで打って出た。凄まじい激戦が展開され、広場であってもスパルタ軍は強大なペルシア軍を押し返した。攻防戦の最中にレオニダスが倒れ、ギリシア軍とペルシア軍は彼の死体を巡って激しい戦いを繰り広げた。ギリシア軍は王の遺体を回収し、敵軍を撃退すること4回に及び、スパルタ軍は優勢であった。しかし、アルペノイから迂回部隊が進軍してくると、スパルタ・テスピアイ両軍は再び街道まで後退し、城壁の背後にあった小丘に陣を敷いた。彼らは四方から攻め寄せるペルシア軍に最後まで抵抗し、槍が折れると剣で、剣が折れると素手や歯で戦った。ペルシア兵はスパルタ兵を恐れて肉弾戦を拒み始めたので、最後は遠距離からの矢の雨によってスパルタ・テスピアイ軍は倒された。テーバイ兵を除いて全滅した。ヘロドトスによれば、この日だけでペルシア軍の戦死者は2万人にのぼったとされる。 この戦いでスパルタ人の中ではアルペオスとマロンの兄弟そしてディエネケスが、テスピアイ人の中ではディテュランボスが特に勇名をはせたという。また、重い眼病によってスパルタ軍のエウリュトスとアリストデモスが一時戦場を去った。エウリュトスは再び戦場に戻って戦って討ち死にしたが、アリストデモスは戦場には戻らず、その時は生きながらえた。翌年のプラタイアの戦いで彼は恥を雪(すす)がんと奮戦し討ち死にした。
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戦いの経過
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6月22日、蔵重大佐は兵力を次のように配置した。 飛鳳山陣地は第3大隊(宮原春樹少佐)、第3大隊主力、速射砲中隊(1門)、野砲1中隊 来鳳山陣地は連隊砲中隊(成合盛大尉)、速射砲中隊(1門)、歩兵第6中隊、第2機関銃中隊の1個小隊 宝鳳山陣地は歩兵1個小隊(岡崎均少尉)、混成歩兵1個小隊、機関銃1個分隊 、迫撃砲1門 城壁、東営台陣地は歩兵1個大隊(早瀬千歳大尉)、混成歩兵3個小隊、連隊砲2個小隊(2門)、速射砲2個小隊(2門)、機関銃2梃 高良山陣地は歩兵第9中隊の一部(副島秋義准尉)、歩兵第9中隊の1個小隊 第2機関銃中隊の1個分隊 予備隊として第2大隊(日隅太郎大尉)、歩兵第5中隊基幹 ところがその2日後に、第56師団司令部から宮原少佐の第3大隊を抽出するよう命じてきた。蔵重大佐はこのままでは、騰越防衛のメドが立たないと思ったが、師団の苦しい立場を考え、これを受け入れた。結局、蔵重大佐は飛鳳山陣地を放棄して陣地配備を変更した。当時の守備隊兵力は、 騰越守備隊長、蔵重康美大佐 歩兵第148連隊本部110名 同第2大隊主力650名 同第1大隊残留者80名 同第3大隊残留者70名 連隊直轄部隊340名 第56師団歩兵団残留者42名 野砲兵第56連隊第1大隊35名 師団通信隊1個分隊12名 師団衛生隊の一部20名 第1野戦病院主力150名 収容患者250名 野戦倉庫14名 憲兵派遣隊10名 野戦郵便所7名 防疫給水部の1個小隊45名 師団病馬廠の一部25名 工兵第56連隊1個小隊40名 歩兵第114連隊第1大隊残留者100名 輜重兵第56連隊の一部18名 歩兵第146連隊の一部7名 の計2025名であった。一方、対する雲南遠征軍の兵力は49,600名であった。兵力差は実に25倍であったが、騰越守備隊は2か月以上も騰越を死守したのである。 6/26、騰越師団通信隊、敵部隊間の交信情報をキャッチ 6/27、午前6時、雲南遠征軍、来鳳山陣地を砲撃(騰越城攻防戦の始まり) 6/29、高良山陣地(守兵25名)をめぐる攻防 副島准尉戦死 雲南遠征軍は、騰越前面に予備第2師、第36師、第198師、第130師の4個師団。また第116師が、騰越南方を遮断し、龍陵への道路を遮断した。これにより騰越は完全にとりかこまれてしまった。 7/26、戦爆連合57機、陣地を猛爆 7/27、蔵重大佐、外郭陣地を放棄し、城壁陣地に後退 7月27日以降、騰越守備隊は騰越城に籠って、9月13日の玉砕するまで戦いを続けた
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戦いの経過
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「多々良浜の戦い (戦国時代)」の記事における「戦いの経過」の解説
こうして多々良川付近で毛利勢と大友勢は相見えることになったものの、毛利方は立花山城の防衛を企図しており、積極的な出戦は考えておらず、大友方は立花山城の攻略前に消耗することになる決戦に二の足を踏んでしまっていた。また、当時の多々良川付近は川といいながらも海からずっと続く干潟となっており、大友方からすれば非常に攻めにくく、毛利方からすれば守りやすい地形であったことも決戦回避への要素となった。こうしたそれぞれの意図から両勢は多々良川から多々良浜にかけての川沿いで対陣することになった。その為、多々良浜の戦いは長期間に渡り、18回の合戦が行われたにも関わらず、大きな決戦は行われていない。 この18回の合戦のうち、もっとも激しかったのは1569年(永禄12年)5月18日に起きた戦いである。この戦いは多々良川のやや川上にある長尾(現在の福岡県福岡市東区名子付近)を攻略して多々良川の防衛線を抜こうと企図したことにより発生した。ここを守っていたのは毛利一門の小早川隆景であり、大友勢は苦戦したものの、戸次鑑連が自ら陣頭に立って戦う奮闘により、小早川勢を駆逐し、長尾を奪うことに成功している。 この戦いの結果、多々良川の防衛線の一部が崩れ毛利勢は防衛線と立花山城の連絡が断たれる可能性が出たことから立花山城に撤退している。しかし、多々良川の防衛線を抜いたとはいえ、大友勢の損害も多く、また立花山城は堅城であり、有力な毛利勢が残っている状態で攻城戦もできなかったことから、再び双方とも手詰まりとなって対陣を続けることになった。 こうした対陣の最中、大友宗麟は吉岡長増の献策を容れ、周防の前国主であった大内一族の大内輝弘に兵を与えて周防に送り、旧領回復の兵を挙げさせた。1569年(永禄12年)8月に大内輝弘は周防に渡って挙兵することになり、これに大内氏の旧臣が呼応した結果、周防の毛利氏の拠点である高嶺城を脅かすことになった(大内輝弘の乱)。 また、時同じくして尼子氏の旧臣山中幸盛、立原久綱らが尼子勝久を奉じて隠岐で尼子再興の挙兵し、出雲の新山城に入り出雲の諸城を攻略する事件が起きた(尼子再興軍の雲州侵攻)。毛利氏の出雲の拠点である月山富田城を脅かすなど、毛利氏の領国支配体制が危機にさらされることになった。 この危機を脱するため、毛利元就は筑前方面に展開している吉川元春、小早川隆景らの毛利軍主力を呼び戻すこととし、毛利勢は立花山城に乃美宗勝らわずかな兵を残したまま宗像氏の支援を得て北九州より撤退し、多々良浜の戦いは大友氏の勝利に終わった。また、立花山城は翌年になって開城し守備兵も約定により本州へ撤退した。
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戦いの経過
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紀元前480年9月20日ごろ(29日説あり)の明朝、テミストクレスによる訓示の後、ギリシアの全艦艇は停泊地より一斉に出撃した。ペルシア艦隊はギリシア艦艇の出撃を知ると、キュノスラ半島を越え、サラミス水道に侵入した。ギリシア軍はペルシア艦隊を認めると、逆櫓を漕いでペルシア艦隊とは逆の方向、つまりサラミス島の陸側に向かうような動きを見せた。これについてプルタルコスは、テミストクレスがこの水道に一定の時刻になると吹く風(シロッコ)を利用するため、ペルシア艦隊を前にすると逆櫓を漕いで後退し、時間を稼いだとしている。 ヘロドトスによると、ギリシア側は、西翼にアテナイ艦隊、東翼にスパルタ艦隊を配置し、対するペルシア側の布陣は西翼にフェニキア艦隊、東翼にイオニア連合艦隊が展開するものであった。戦闘の始まりについてヘロドトスは複数の説を伝えている。アテナイによれば、アテナイ船1隻が戦列を抜けてペルシア艦隊に突っ込み、他の艦船もこれを救援すべく突入したことで戦闘が開かれたとしている。また、アイギナによると、神霊をむかえてアイギナより来航したアイギナ三段櫂船がペルシア艦艇と最初の戦闘を行ったとしている。また、ギリシア軍の眼前に1人の女性が現れ、全軍を鼓舞激励したとも伝えている。実際の戦闘がサラミス水道のどこで行われたのか、また、全勢力が激突したのか、あるいは包囲線をギリシア艦隊が突破したと見るのかは、古来より諸説あり、ヘロドトスも具体的な記述を残していないため不明である。しかし、ヘロドトスはペルシア艦隊の敗因として戦列の乱れを挙げている。プルタルコスが、テミストクレスが風待ちを行ったという記述を残していることを考えると、艦船への直接打撃を行うため喫水が深く重い造りのギリシア艦船に比べ、兵を敵船に揚げるために重心の高い造りとなっているペルシア艦船は、シロッコによる高波で、また、日没前にはマイストロと呼ばれる西風による高波で思うように動きが取れなかったと推察される。戦闘海域も大艦隊を誘導するには狭すぎ、戦列が乱れたところにギリシア艦隊の船間突破戦法を受けたと考えられる。 この戦闘で名声を得たのはアイギナ艦隊とアテナイ艦隊であった。アテナイの将軍アリステイデスは、サラミス海岸に配置されていた重装歩兵を率いてプシュッタレイア島に上陸し、ペルシア歩兵を全滅させた。敗戦を悟ったクセルクセス1世は、日没とともに艦隊をファレロン湾まで後退させ、戦闘は終結した。
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戦いの経過
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まだ9歳であった毛利氏の当主・毛利幸松丸の後見人を務める毛利元就は毛利勢を率いて、大永3年(1523年)6月13日、毛利軍は吉川国経らと共に4,000の軍勢で城攻めを開始した。一方、大内方は蔵田房信とその副将として叔父の蔵田直信が鏡山城に入り、尼子軍を迎え撃った。奮戦する房信は尼子軍を容易に城へ寄せ付けず、戦線は膠着状態に陥った。そこで元就は一計を案じ、蔵田家の家督を継がせることを条件に直信を寝返らせ、直信が守備する二の丸に尼子軍を手引きさせた。尼子軍の侵入を許した鏡山城内は大混乱をきたした。城将の房信は本丸に籠もって最後の防戦を一昼夜続けるが、28日に落城した。房信は、妻子と城兵の助命と引き替えに自害した。 落城後、経久は房信の申し出は承認したものの、直信については寝返りを非難して処刑を命じた。元就は策の約定を反故にされた。さらに毛利氏の戦功は全軍で一番であろうことは明らかであったにも関わらず、尼子氏は毛利氏へ恩賞を与えなかった。この攻城戦が終わり、経久は元就を警戒し、元就は経久に不信感を抱いた。
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戦いの経過
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「エルパーの戦い (1809年)」の記事における「戦いの経過」の解説
兵力に劣る「黒い軍勢」は、さらにハルバーシュタットから進攻するホラント王国の師団に脅かされていた。これら二つの師団に挟撃されないよう、フリードリヒ・ヴィルヘルムはブラウンシュヴァイクの北方、エルパー村付近でヴェストファーレン軍と対峙し、最終的に北に向けて突破することにした。 午後2時頃、「黒い軍勢」はハルバーシュタットで鹵獲した物資で武装済みのブラウンシュヴァイク市民、約200名の増援とともにエルパーへ出発し、そこで陣を敷いた。ゲオルク・ルートヴィヒ・コルフェス (de:Georg Ludwig Korfes) 少佐は、敵軍による側面攻撃を阻むためオーカー川に掛かる橋を破壊した。 およそ1時間後、リュベル将軍の部隊はエルパ―近郊に到着した。その先鋒を進んでいたヴェストファーレン王国第1胸甲騎兵連隊 (de:1. Westfälisches Kürassier-Regiment) は、すぐに火網に捉えられ退く。それから前進して来たヴェストファーレン王国第1歩兵連隊を前に、フリードリヒ・ヴィルヘルムは南へ退いてエルパー村を明け渡し、高地に陣取る砲兵と合流した。さらに来攻するヴェストファーレン歩兵を、そこから撃退できたのである。 続いてブラウンシュヴァイク勢は、先頭に立つフリードリヒ・ヴィルヘルムとともに反攻に移った。その際、彼の馬は殺されたが自身は無傷であった。しかし、前進中のある中隊の指揮官、ラビール大尉が戦死すると「黒い軍勢」はエルパー村を奪還することなく撤収する。 直後に行われたヴェストファーレン軍の反撃も失敗した。さらにエルンスト・フォン・シュラーダー (de:Ernst von Schrader) 少佐指揮下のフザールが、豪胆な反攻でなおも損害を加え、ヴェストファーレン軍の戦列を大い混乱させる。 また砲撃の応酬によってブラウンシュヴァイク側は1門の大砲を失ったが、もう大がかりな攻撃が実施されることはなかった。フリードリヒ・ヴィルヘルムは夜襲を計画したが、それを予期していたリュベル将軍はその前にエルパ―から撤収した。
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戦いの経過
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カルタゴ連合軍は海上での進軍中に嵐に見舞われ、騎兵の大半が失われるという大損害を被った。それでも尚進軍はやめず、ヒメラ近郊に辿り着くと深い堀と木の柵で陣地を築き、近くの都市に攻め入って略奪を繰り返した。また、騎兵の損失を埋めるため、ハミルカルは現地で騎兵の募集を開始した。 ゲロンはハミルカルが騎兵を募集していることを知り、一計を案じた。募兵に乗じて、自らの騎兵を敵軍に潜入させることにしたのである。その騎兵は、カルタゴ連合軍の軍船に火を付け、ハミルカルを暗殺するように命じられていた。 ゲロンの騎兵たちは無事、徴募兵の集結地に紛れ込むことに成功した。これを受けてゲロンはカルタゴ連合軍の拠点に向けて進軍を開始した。カルタゴ連合軍も隊列を固め、圧倒的な大軍勢がシュラクサイ軍に立ちはだかった。 潜入した騎兵は命令通り、日の出と共に軍船に火を付け、ハミルカルを暗殺した。この時、ハミルカルはポセイドン神殿で供物を捧げている最中であったという。突然拠点から火の手が上がったカルタゴ連合軍は浮き足立ち、総司令官ハミルカルが死んだという報せが届いて動揺の色が広まった。その直後にゲロンはシュラクサイ軍に突撃を命じ、一気に攻め入った。戦意喪失していたカルタゴ連合軍は総崩れとなり、シュラクサイ軍は「捕虜を取らない」という方針であったため、一方的な大虐殺となった。30万のカルタゴ連合軍は、半分の15万名以上の大損失を被り、この戦いはシュラクサイの圧勝となった。残りの15万名は捕らえられたという説や、無事逃げ切ったという説がある。
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戦いの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/17 23:42 UTC 版)
天文13年(1544年)7月、尼子晴久は尼子国久とその子・誠久を総大将として7,000の軍勢を送り込んだ。尼子軍は、大内方となっている国人三吉広隆が守る比叡尾山城を目指して進軍し、城から10キロメートルほど離れた場所である布野(府野)に陣を敷いた。なお、比叡尾山城は安芸吉田郡への入口にあたる要衝に位置しており、遠征の狙いは毛利元就の居城吉田郡山城の再攻撃を企てていたともされる。 これに対して元就は、福原貞俊・児玉就忠・井上光利らに1,000余騎を預けて援軍とする。7月28日には濃霧の中で尼子軍に攻めかかるも、精強で名を知られた新宮党を率いる尼子国久らの前に毛利軍は敗走。毛利に属していた上山実広や井上光利などが討ち死にしている。あまりの大敗であるため、布野での戦いは「布野崩れ」と呼ばれるほどであった。 しかし、比叡尾山城の広隆勢500は、翌29日に尼子陣営に奇襲をかけた。前日の大勝によって尼子勢は油断していたとみられ、尼子軍は総崩れとなって出雲国へ退却。尼子軍の侵攻を食い止めることに成功した。
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戦いの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/27 05:06 UTC 版)
天正13年の7月、毛利氏の四国征伐に伴う出兵で西伯耆の軍勢が手薄になった。その隙に南条元続支援の行松氏は1000余騎を率いて福頼左衛門尉元秀の守る汗入郡の河原山城を攻撃、これを落城させた。この一報に驚いた毛利家臣・吉川元春は弟の毛利元康を出兵させ、多数の支援部隊を送り込んでただちにこれを回復した。行松氏は成果を挙げられないまま、7月15日には羽衣石城へ退却していった。
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