ヒメラの戦い
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ヒメラの戦い(ヒメラのたたかい、英:Battle of Himera)は、紀元前480年にシケリア島のヒメラ(現在のテルミニ・イメレーゼの東12キロメートル)にて勃発したシュラクサイ軍とカルタゴ軍の戦いである。一連のシケリア戦争のうち、第一次シケリア戦争と区別される。東の大国ペルシア帝国を撃破したペルシア戦争と同時期の戦争(ヘロドトスによれば、サラミスの海戦と同日)であり、ギリシアはこの戦いを通して西側でも異国の大軍に勝利したことになる。イメラの戦いとも呼ばれる。
- 1 ヒメラの戦いとは
- 2 ヒメラの戦いの概要
- 3 参考文献
ヒメラの戦い
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「ゲロン (シュラクサイの僭主)」の記事における「ヒメラの戦い」の解説
詳細は「ヒメラの戦い」を参照 ゲロンがギリシア本土を支援しなかった理由の一つとして、シケリア西部に対するカルタゴの脅威があった(シケリア西部にはフェニキア人の殖民都市があったが、紀元前560年頃には同じフェニキア人の都市国家であるカルタゴの支配下に入っていた)。アクラガスのテロンはヒメラの僭主テリルスに勝利したが、これによってシケリアの独立がカルタゴに脅かされることになってしまった。ヒメラを奪回するために、テリルスはカルタゴに渡って支援を求めた。カルタゴはテリルスの懇願を受け入れた。カルタゴはシケリアにおける影響力と領土拡大を狙っており、予想されるペルシアのギリシア侵略は絶好の機会であった。 何人かの学者はクセルクセスとカルタゴは連絡を取っており、東西からギリシア本土およびその植民都市を同時に攻撃し、お互いに支援できないようにすることを狙っていたと考えている。何れにせよ、紀元前480年にカルタゴはハミルカルが率いる300,000の兵力を持ってシケリア北岸のパノルムス(現在のパレルモ)に上陸し、ヒメラに向かって進んだ。ゲロンは同盟関係にあるテロンの危機を知り、歩兵50,000と騎兵5,000と共にヒメラに向かった。 ゲロンの部隊の一部は、近くのセリヌスからの同盟軍を装って、カルタゴ軍野営地に侵入することに成功した。内部に入ると、野営地を見下ろす山岳部にいたゲロンの他の部隊に連絡し、ハミルカルの不目に火をつけた。続く戦闘はゲロンとテロンの決定的勝利に終わり、カルタゴ軍はハミルカルを含む150,000を失った。 カルタゴ軍野営地での略奪物と、講和条件としてカルタゴから支払われた2,000タレントの賠償金は、ゲロンとその兵および同盟都市に分配され、また多量の資金がシュラクサイの新しい神殿の建設に使われた。ヘロドトスによると、ゲロンがシュラクサイに戻った際にシュラクサイ市民との会合を開き、ハミルカルとの戦争でとった行動と戦利品を分配した方法を説明した。ゲロンは彼が間違った行動をとった場合は彼を殺し、シュラクサイを市民自身が支配して良いと述べた。市民はゲロンを引き続きシュラクサイの僭主として認め、次の2年間の統治の間は平和が維持された。
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