ヒメラの戦い
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ヒメラの戦い | |
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![]() 1873年にイタリアの画家ジュゼッペ・シューティが描いたヒメラの戦い | |
戦争:第一次シケリア戦争 | |
年月日:紀元前480年 | |
場所:シケリア島ヒメラ | |
結果:カルタゴ軍の敗退 | |
交戦勢力 | |
古代ギリシアのシュラクサイ | カルタゴ |
指導者・指揮官 | |
ゲロン | ハミルカル1世 |
戦力 | |
55,000 | 300,000 |
損害 | |
不明 | 150,000以上 |
ヒメラの戦い(ヒメラのたたかい、英:Battle of Himera)は、紀元前480年にシケリア島のヒメラ(現在のテルミニ・イメレーゼの東12キロメートル)にて勃発したシュラクサイ軍とカルタゴ軍の戦いである。一連のシケリア戦争のうち、第一次シケリア戦争と区別される。東の大国ペルシア帝国を撃破したペルシア戦争と同時期の戦争(ヘロドトスによれば、サラミスの海戦と同日)であり、ギリシアはこの戦いを通して西側でも異国の大軍に勝利したことになる。イメラの戦いとも呼ばれる。
背景
当時、シチリア島には多くのギリシア人が植民地を設けており、繁栄していた。その内の一つであるアクラガスで全てが始まった。紀元前483年頃にアクラガスの僭主テロンが、ヒメラの僭主テリルスを追放し、代わりに自らの息子であるトラシダイオスを支配者に据えたのだ。追放されたテリルスは娘婿である南イタリアのアナクシラスを頼った。アナクシラスは賓客関係にあるカルタゴのハミルカル1世に救援を要請し、ハミルカルはそれを受けて30万にも及ぶとされる大軍勢を200隻以上の軍船と3000隻以上の輸送船で以てヒメラへと進軍させた。この大軍は、カルタゴ人のみならず、リビュア人、イベリア人、リグリア人、エリシュコイ人、サルディニア人、キュルノス人たちで構成された連合軍であり、同時期にギリシアを攻め込んでいたペルシア帝国の援助も受けていた。
30万のカルタゴ連合軍の報せを受けたテロンは、到底アクラガスの軍力では対抗できないと悟り、互いの地位強化のために手を組んでいたシュラクサイの僭主ゲロンに救援を要請した。ゲロンは5万の重装歩兵と5000の騎兵を用意し、カルタゴ連合軍と対峙することに決めた。
戦いの経過
カルタゴ連合軍は海上での進軍中に嵐に見舞われ、騎兵の大半が失われるという大損害を被った。それでも尚進軍はやめず、ヒメラ近郊に辿り着くと深い堀と木の柵で陣地を築き、近くの都市に攻め入って略奪を繰り返した。また、騎兵の損失を埋めるため、ハミルカルは現地で騎兵の募集を開始した。
ゲロンはハミルカルが騎兵を募集していることを知り、一計を案じた。募兵に乗じて、自らの騎兵を敵軍に潜入させることにしたのである。その騎兵は、カルタゴ連合軍の軍船に火を付け、ハミルカルを暗殺するように命じられていた。
ゲロンの騎兵たちは無事、徴募兵の集結地に紛れ込むことに成功した。これを受けてゲロンはカルタゴ連合軍の拠点に向けて進軍を開始した。カルタゴ連合軍も隊列を固め、圧倒的な大軍勢がシュラクサイ軍に立ちはだかった。
潜入した騎兵は命令通り、日の出と共に軍船に火を付け、ハミルカルを暗殺した。この時、ハミルカルはポセイドン神殿で供物を捧げている最中であったという。突然拠点から火の手が上がったカルタゴ連合軍は浮き足立ち、総司令官ハミルカルが死んだという報せが届いて動揺の色が広まった。その直後にゲロンはシュラクサイ軍に突撃を命じ、一気に攻め入った。戦意喪失していたカルタゴ連合軍は総崩れとなり、シュラクサイ軍は「捕虜を取らない」という方針であったため、一方的な大虐殺となった。30万のカルタゴ連合軍は、半分の15万名以上の大損失を被り、この戦いはシュラクサイの圧勝となった。残りの15万名は捕らえられたという説や、無事逃げ切ったという説がある。
戦いの影響
カルタゴ連合軍の大敗と大損失は、カルタゴ本土に大きな影響を与えた。これによってカルタゴの国力は大きく弱体化し、当時権勢を誇っていたカルタゴの貴族政は一気に失墜することとなった。そして、力を付けていた共和政が台頭し、貴族政を打倒する契機となったのである。
参考文献
- 市川定春『古代ギリシア人の戦争』新紀元社、2003年
ヒメラの戦い
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「ゲロン (シュラクサイの僭主)」の記事における「ヒメラの戦い」の解説
詳細は「ヒメラの戦い」を参照 ゲロンがギリシア本土を支援しなかった理由の一つとして、シケリア西部に対するカルタゴの脅威があった(シケリア西部にはフェニキア人の殖民都市があったが、紀元前560年頃には同じフェニキア人の都市国家であるカルタゴの支配下に入っていた)。アクラガスのテロンはヒメラの僭主テリルスに勝利したが、これによってシケリアの独立がカルタゴに脅かされることになってしまった。ヒメラを奪回するために、テリルスはカルタゴに渡って支援を求めた。カルタゴはテリルスの懇願を受け入れた。カルタゴはシケリアにおける影響力と領土拡大を狙っており、予想されるペルシアのギリシア侵略は絶好の機会であった。 何人かの学者はクセルクセスとカルタゴは連絡を取っており、東西からギリシア本土およびその植民都市を同時に攻撃し、お互いに支援できないようにすることを狙っていたと考えている。何れにせよ、紀元前480年にカルタゴはハミルカルが率いる300,000の兵力を持ってシケリア北岸のパノルムス(現在のパレルモ)に上陸し、ヒメラに向かって進んだ。ゲロンは同盟関係にあるテロンの危機を知り、歩兵50,000と騎兵5,000と共にヒメラに向かった。 ゲロンの部隊の一部は、近くのセリヌスからの同盟軍を装って、カルタゴ軍野営地に侵入することに成功した。内部に入ると、野営地を見下ろす山岳部にいたゲロンの他の部隊に連絡し、ハミルカルの不目に火をつけた。続く戦闘はゲロンとテロンの決定的勝利に終わり、カルタゴ軍はハミルカルを含む150,000を失った。 カルタゴ軍野営地での略奪物と、講和条件としてカルタゴから支払われた2,000タレントの賠償金は、ゲロンとその兵および同盟都市に分配され、また多量の資金がシュラクサイの新しい神殿の建設に使われた。ヘロドトスによると、ゲロンがシュラクサイに戻った際にシュラクサイ市民との会合を開き、ハミルカルとの戦争でとった行動と戦利品を分配した方法を説明した。ゲロンは彼が間違った行動をとった場合は彼を殺し、シュラクサイを市民自身が支配して良いと述べた。市民はゲロンを引き続きシュラクサイの僭主として認め、次の2年間の統治の間は平和が維持された。
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