領土拡大
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修道士から急遽即位したシメオンであったが、キリスト教を受容しつつも、彼の政策は父ボリス1世が進めた東ローマ帝国との協和路線とは逆の敵対路線へと向かうことになる。894年、ブルガリア商人がコンスタンティノープルのミタトン(外国商人のための商業施設)から突然締め出されて西のテッサロニケに移動となり、また税も引き上げられるなど不遇の処置を受けはじめた。シメオンはこれらの命令の撤回を求める書簡が拒絶されると、ただちに軍勢を率いて西トラキアに進撃し、迎撃に来た東ローマ軍団に大勝して司令官プロコピオ・クレテニスを殺害した。これに対して東ローマ帝国はブルガリア北方に住むマジャール人と交渉してブルガリアを攻撃させる一方、ニケフォロス・フォカスの陸軍をトラキアへ、エウスタティウスの艦隊をドナウ川へ向かわせマジャール人を支援させた。 シメオンはトラキアでニケフォロスとの戦いに備えていたが、マジャール人が北部に侵入したとの知らせが届いたため、急いで引き返すも敗北する。その後、シメオンはドナウ河畔のシリストラ要塞に避難したため、新都プレスラフはマジャール人の略奪を受けた。シメオンはエウスタティウスを通して東ローマ皇帝レオーン6世に和平を申し込むと、都合よく東ローマの軍勢を引き上げたため、和平交渉にシメオンの宮殿に来た大使レオン・コイロスファクテスを投獄して、当時黒海北方の平原で活動していたチュルク系民族ペチェネグ人と交渉してマジャール人を挟撃し、領地を略奪し返した。マジャール人を撃破したことで東ローマより優位に立ったシメオンは、和平の条件に捕虜の返還を要求する。 しかし、先に捕虜が返還されると「何人かが未だ拘束されている」と宣言して、和平の大使のレオン・コイロスファクテスを再び投獄する。そこで東ローマはカタカロン(ニケフォロスの後任)の率いる主力軍をブルガリアに派遣したが、シメオンはブルガロフェゴン(現ババエスキ市)で東ローマ軍を待ち伏せして壊滅的な被害を与えた。896年、ブルガリアと東ローマ帝国でようやく和議がまとまり、帝国の捕虜12万人を返す代わりに、東ローマは毎年貢納金を支払うことと、トラキア領の支配をブルガリア有利に調停することなどが決まった。シメオンはこうして東ローマ皇帝からかつてのペルシア王やイスラームのカリフと同等の扱いを受けるまでに影響力を増した。 一方で、東ローマ軍が大きな被害を受けたためイスラーム帝国がエーゲ海沿岸の各地を襲撃し東ローマを圧迫すると、シメオンはマケドニア南、西部に侵攻してバルカン半島の西端、アドリア海岸までブルガリアの領土を広げた。また、904年にはテッサロニケの北22㎞にあるネア・フィラデルフィアに、ブルガリアと東ローマの国境を示すギリシア語の碑文が立てられ、そこには「神によってブルガリアの支配者となった者(エク・テウ・アルコントス・ブルガローン)」であるシメオンの名と幾人かの高官、地方統治官の名が刻まれた(この東ローマ皇帝風の称号はオムルタグ、マラミル、プレシアンら歴代のハーンの碑文にも同様のものが見られる)。
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領土拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 14:19 UTC 版)
クドゥル・マブクの息子として生まれ、兄のワラド・シンの跡を継いでラルサ王となった。その即位時には、まだ父クドゥル・マブクは存命であり、彼が実質的な支配者としてラルサを支配した。紀元前1815年頃、クドゥル・マブクが死去したことによって、単独の支配者として君臨する事になる。彼は単独統治を始めて間もなく、バビロンの王シン・ムバリトを破って国境を北に押し上げ、またウルク市を併合してペルシア湾岸地帯を制圧した。これによってラルサは紀元前18世紀に入るまでに、南部メソポタミアにおいて最大の国家となった。彼がその生涯最大の勝利として記録しているのが紀元前1794年のイシン王ダミク・イリシュに対する勝利である。100年以上にわたり、メソポタミアの覇権を巡って争ったイシンを完全に併合することに成功した事は、快挙として受け止められ、リム・シン1世にとって最大の栄光となった。
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領土拡大
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1864年、ニジェール川上流域を支配するトゥクロール帝国を建国したエル・ハジ・ウマル・トールが死去した。同国家の権力支配が喪失したことで、将官や現地の支配者たちが自分の国家を創設しようと戦った。 1867年までに、トゥーレはギニア高原 (Guinea Highlands) に拠点を置く軍隊の本格的な戦争司令官だった。トゥーレには大きな2つの目標があり、近代的な銃器を装備した効率的で忠実な戦闘軍隊を創設することと、安定国家を構築することだった。 1876年までに、サモリはシエラレオネの首都フリータウンにある英国植民地を通じて後装式ライフル銃を輸入していた。彼はブレ金鉱地区(現:マリとギニアの国境)を征服し、財政基盤を強化した。1878年までに、彼はサモリ帝国のファアマ(軍事指導者)を宣言するのに十分な強さになった。彼はビサンドゥグを首都にし、近隣のトゥクロールと政治的、商業的交流を始めた。 1881年、数々の闘争を経てトゥーレはカンカン地方の交易中心地ジュラ(Dyula)の支配権を確保した。カンカンはコーラナッツ貿易の中心地であり、全方位の交易ルートを支配する場所だった。1881年までに、サモリ帝国は現在のギニアやマリの領土を超えて、現在のシエラレオネからコートジボワール北部まで拡大した。 トゥーレは周囲にある多数の小さな部族国家を征服し、自身の外交的地位を確保するために働いた。彼はシエラレオネで英国植民地政権と定期的に連絡を取り合った。彼はまたフータ・ジャロン王国にいるフラニ族のイスラム教指導者(イマーム)と仕事上の関係を築いた。
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領土拡大
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「ニュージーランド自治領」の記事における「領土拡大」の解説
以前はイギリスの主権下にあったロス海域の南極領土は、今日、ニュージーランドによって、1923年8月16日にニュージーランド自治領の一部となったと見なされている。その現代的な主張の合法性は疑問視されているが、それでもニュージーランドの立場である。 クック諸島とニウエはそれぞれ、宣言された日にニュージーランド自治領の一部を形成していた。どちらも1901年6月11日にニュージーランドの植民地の一部になった。西サモアはニュージーランドの一部ではなく、代わりに国際連盟の委任統治とその後の国連信託統治理事会の対象となっていた。1982年、枢密院司法委員会は、ニュージーランドの管理下(つまり、1962年以前)に生まれたサモア人がニュージーランドの市民権を主張することを許可した。
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