領土拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 05:49 UTC 版)
修道士から急遽即位したシメオンであったが、キリスト教を受容しつつも、彼の政策は父ボリス1世が進めた東ローマ帝国との協和路線とは逆の敵対路線へと向かうことになる。894年、ブルガリア商人がコンスタンティノープルのミタトン(外国商人のための商業施設)から突然締め出されて西のテッサロニケに移動となり、また税も引き上げられるなど不遇の処置を受けはじめた。シメオンはこれらの命令の撤回を求める書簡が拒絶されると、ただちに軍勢を率いて西トラキアに進撃し、迎撃に来た東ローマ軍団に大勝して司令官プロコピオ・クレテニスを殺害した。これに対して東ローマ帝国はブルガリア北方に住むマジャール人と交渉してブルガリアを攻撃させる一方、ニケフォロス・フォカスの陸軍をトラキアへ、エウスタティウスの艦隊をドナウ川へ向かわせマジャール人を支援させた。 シメオンはトラキアでニケフォロスとの戦いに備えていたが、マジャール人が北部に侵入したとの知らせが届いたため、急いで引き返すも敗北する。その後、シメオンはドナウ河畔のシリストラ要塞に避難したため、新都プレスラフはマジャール人の略奪を受けた。シメオンはエウスタティウスを通して東ローマ皇帝レオーン6世に和平を申し込むと、都合よく東ローマの軍勢を引き上げたため、和平交渉にシメオンの宮殿に来た大使レオン・コイロスファクテスを投獄して、当時黒海北方の平原で活動していたチュルク系民族ペチェネグ人と交渉してマジャール人を挟撃し、領地を略奪し返した。マジャール人を撃破したことで東ローマより優位に立ったシメオンは、和平の条件に捕虜の返還を要求する。 しかし、先に捕虜が返還されると「何人かが未だ拘束されている」と宣言して、和平の大使のレオン・コイロスファクテスを再び投獄する。そこで東ローマはカタカロン(ニケフォロスの後任)の率いる主力軍をブルガリアに派遣したが、シメオンはブルガロフェゴン(現ババエスキ市)で東ローマ軍を待ち伏せして壊滅的な被害を与えた。896年、ブルガリアと東ローマ帝国でようやく和議がまとまり、帝国の捕虜12万人を返す代わりに、東ローマは毎年貢納金を支払うことと、トラキア領の支配をブルガリア有利に調停することなどが決まった。シメオンはこうして東ローマ皇帝からかつてのペルシア王やイスラームのカリフと同等の扱いを受けるまでに影響力を増した。 一方で、東ローマ軍が大きな被害を受けたためイスラーム帝国がエーゲ海沿岸の各地を襲撃し東ローマを圧迫すると、シメオンはマケドニア南、西部に侵攻してバルカン半島の西端、アドリア海岸までブルガリアの領土を広げた。また、904年にはテッサロニケの北22㎞にあるネア・フィラデルフィアに、ブルガリアと東ローマの国境を示すギリシア語の碑文が立てられ、そこには「神によってブルガリアの支配者となった者(エク・テウ・アルコントス・ブルガローン)」であるシメオンの名と幾人かの高官、地方統治官の名が刻まれた(この東ローマ皇帝風の称号はオムルタグ、マラミル、プレシアンら歴代のハーンの碑文にも同様のものが見られる)。
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