東ローマ軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/02 00:24 UTC 版)
アラブ軍がヤルムーク平野に野営してから数日後、東ローマ軍がガッサーン王ジャバラに率いられた軽装兵を先頭に到着し、ヤルムーク川支流の峡谷の北に宿営地を建設した。ヴァハンは東ローマ軍を東向きに布陣させ、平野の南端のヤルムーク川沿いに配された右翼から、エジプトまで通じるローマ街道が通る平野北部の左翼までの両翼の幅は13キロに及んだ。右翼はグレゴリウス、左翼はブッキナートルが指揮し、中央はヨーロッパ兵とアルメニア兵が固めた。東ローマ帝国の重騎兵として知られるカタフラクトは両翼、中央ともに均等に分配され、各軍団とも歩兵が前面、騎兵が後方に配置された。馬やラクダに乗ったガッサーン王国のキリスト教徒アラブ兵らは、東ローマ軍主力が到着するまでは前衛として配された。アラブ側史料によると、グレゴリウスのフランク人部隊の戦士たちは10人一組で足を鎖でつなぎ、逃げずにその場で死ぬという誓いを立てたという。鎖は敵騎兵の突撃に対する備えにもなった。 東ローマ軍はこれまで何世紀も、乾坤一擲の大規模会戦を忌避してきた。しかし、ハーリドがアラブ軍をシリア各地から撤退させ兵力をヤルムークに集中したことにより、東ローマ軍はその会戦に引きずり込まれる形になった。大量動員により東ローマ軍の兵站には極端な負荷がかかり、最も近い兵站拠点のダマスカスも、ヤルムーク平原の全軍に十分な物資を送ることができなかった。また、物資調達を巡って現地住民との衝突も絶えなかった。 アンティオキアの宮廷にいたヘラクレイオスは指揮官たちに会戦に打って出ないように命令していたが、ヴァハンがこれに従わないと見るや、アンティオキアの廷臣らは反逆罪などと非難した。戦場の指揮官たちも主導権争いに明け暮れており、ヴァハン、トリトゥリオス、ブッキナートルらの仲は険悪だった上に、戦場周辺の地理に明るいガッサーン国王ジャバラはほとんど無視されていた。ギリシャ兵、アルメニア兵、アラブ兵の間にも不信感が漂い、キリスト教会内部の争いであるカルケドン派(正教会)と単性論との長きにわたる論争も影を落とした。 東ローマ軍の兵装 東ローマ騎兵はスパティオンと呼ばれる長剣と、コンタリオンと呼ばれる軽量の木製ランスで武装した。弓も携行しており、箙には矢を40本入れ、鞍やベルトに吊した。 重装歩兵の武器は短剣と短い槍で、軽歩兵と弓兵は小型の盾を用いた。東ローマ軍歩兵は、ギリシャ・ローマ伝統のテストゥド戦術を採用していた。
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