反逆罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/01 14:45 UTC 版)
反逆罪(はんぎゃくざい , 英: treason)は国家または君主に対する忠誠義務違反の罪。
歴史
唐律では謀反は十悪の筆頭に置かれ、全犯罪のうち最悪のものとされていたが、唐律では君主と王朝の区別はみられない[1]。イングランドでも1351年の反逆法で反逆罪が定められたが、反逆法でも君主と王朝の区別はみられなかった[1]。
18世紀のフランスでも君主と王朝(ないし国家)の区別はみられなかったが、フランス革命後、立憲君主制の下で制定された1791年刑法は君主と国家を初めて区別した[1]。フランス革命後のフランスではオーストリアやプロイセンとの対立から1791年刑法、1810年刑法(ナポレオンによる統治下)、1832年改正法(七月王政下)のいずれも外患罪など国家の外的安全を重視した[1]。そのため内乱罪と大逆罪は1853年改正法でも一括りにされていた[1]。ベルギーの1867年刑法、ドイツの1871年刑法、オランダの1881年刑法、イタリアの1889年刑法なども大逆罪と内乱罪は一括りにされていた[1]。
日本の明治13年刑法はフランス刑法の罪刑法定主義を採用したが、大逆罪と内乱罪は二つの章に分け、19世紀のヨーロッパの刑法典には見られない編成であった[1]。
一覧
イギリス
アメリカ合衆国
脚注
関連項目
反逆罪
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終戦後の1945年8月に、昭和天皇、東條英機、そして「東京ローズ」の3人のインタビューを取ることを夢として追っていたアメリカの従軍記者の一人により「発見」され、2000ドル(現在の日本円の価値で600万円程度)で独占取材契約し、録画カメラの前で自分が「東京ローズ」だと言明した。自分が「東京ローズ」であると公言したのはアイバ・戸栗・ダキノが最初で最後だったため、「唯一の『東京ローズ』」として、日米マスコミの取材合戦が過熱し、強い関心の的となった。その為独占の契約を守れず、契約金2000ドル(当時は一軒家が買える値段だった)は支払われなかった。 その後、GHQに呼び出され、映画まで撮られる。しかし、米本土で「反逆者」という記事が出て反響を生む。アイバはGHQにより反逆罪(en:Treason#United States)容疑で巣鴨プリズンに11か月間収監され、FBIの取り調べを受けた。同年11月27日付け「星条旗紙」には巣鴨プリズン収容者の待遇が記事となっており、「2人の女性(戸栗とアルベルグ)のお客さんに、おしゃべり禁止を強要することは困難だろう」と、戸栗の存在に触れた記述がなされている。釈放後は反逆罪で逮捕され、アメリカ本国に強制送還された後、最も反日感情が強かったカリフォルニア州の検事から「対日協力者」としてアメリカで最も重罪である国家反逆罪で起訴された。 裁判は1949年7月5日にカリフォルニア州サンフランシスコ連邦裁判所で開始された。陪審員は全員白人で、総費用50万ドル(7億円)というアメリカ建国史上最大の裁判となった。 弁護側は、アメリカ兵の戦意を喪失させる意図はなかった等と、否認した。弁護側の証人は、アイバが指示通りの仕事をしたと証言し、検察側の証人として出廷した恒石元少佐も、アイバの仕事はアメリカへの反逆にはあたらないとの証言をおこなった。一方検察側は、反逆の意思の有無に関係無く、放送に参加していたこと自体が問題であると主張し、アイバが自発的に番組に参加していた点も強調した。 裁判を取材していたマスコミは、アイバが無罪になると予想していたが、1949年9月29日に下った判決は有罪で、禁錮10年と罰金1万ドル、アメリカ市民権剥奪などを言い渡され、女性として史上初の国家反逆罪となった。アイバは6年2ヶ月の服役後、模範囚として釈放された。 有罪判決については、トルーマン政権の司法長官トム・C・クラーク(英語版)による陰謀説もある。
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「反逆罪」の例文・使い方・用例・文例
- 1980年代、多くの反アパルトヘイト活動家が反逆罪で逮捕された。
- 彼は反逆罪の宣告を受けていた.
- 国家反逆罪のかどで, 被告人全員は極刑の判決を受けた.
- 反逆罪の小さい黄色の染み−M.W.ストレート
- 裁判せずにある人が反逆罪または重罪であることを発見する法律
- 反逆罪を犯し、自分の国を裏切る人
- 反逆罪で処刑された初期の哲学者と政治家であったローマ人
- ユダヤ系のフランス人将校で、彼が1894年に反逆罪で不法監禁されたことが、1906年に釈放されるまでフランス政治を支配していたユダヤ人差別の問題を提起した(1859年−1935年)
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