「発見」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/23 10:00 UTC 版)
島には、先住民としてカリブ族とアラワク族が暮らしていた。 1493年11月11日、コロンブスは第2回航海でこの島を「発見」し、11月11日が聖マルティヌスの聖名祝日(聖マルティヌスの日)であることにちなんでサン・マルティン島(スペイン語: Isla de San Martín)と名付けた。コロンブスはこの島をスペイン領に帰するものと主張したが、スペインはこの島への植民を重要視しなかった。 島は各国の船や海賊たちが水や塩の供給地として利用するようになり、「塩の島」Soualiga と呼ばれるようになった。17世紀に入ると、フランスとオランダがこの島に着目した。フランス人たちはトリニダードとバミューダの中間に拠点を欲し、オランダ人たちはニューアムステルダムとブラジルの中間に拠点を欲していたのである。 オランダ人たちは1627年から1631年にかけて島に植民を開始し、1631年には町とアムステルダム砦(Fort Amsterdam (Sint Maarten))を築いた。島の人口は少なかったため、拠点建設は容易に進んだ。Jan Claeszen Van Campen が最初の総督になり、間もなくオランダ西インド会社が塩鉱の経営に乗り出した。同様にフランス人やイギリス人の植民者も島に進出した。かれらが塩の交易に成功すると、スペインもこの島の価値に気づくようになった。当時、スペインとオランダは八十年戦争を繰り広げており、この島にも戦火は及んだ。 1633年、スペインがオランダから島を奪取し、入植者たちのほとんどを追放した(Capture of Saint Martin (1633))。スペインは Point Blanche に砦を建設している。オランダはたびたびセント・マーチン島の奪回を図ったが、すべて失敗に終わっている。のちにニューネーデルラント総督を務めることになるピーター・ストイフェサントは、1644年にセント・マーチン島への攻撃を指揮するも、片足を失っている(Attack on Saint Martin)。 スペインによる占領から15年が経過した1648年、八十年戦争は終結するが、このころにはスペインはカリブ海の拠点経営に関心を失っており、セント・マーチン島も放棄された。
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