「発破」とムーニー事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 23:07 UTC 版)
「アレクサンダー・バークマン」の記事における「「発破」とムーニー事件」の解説
「ムーニー事件」も参照 1915年、バークマンはニューヨークを離れ、カリフォルニア州へ向った。翌年、サンフランシスコで彼はアナーキスト誌「発破」の出版を始めた。18ヶ月しか発行されなかったものの、「発破」は「母なる地球」に次いでアメリカのアナキスト達に大きな影響を与えたと考えられている。 1916年7月22日、10人を殺害し40人に重傷を負わせた爆弾事件が起こる。警察はバークマンが首謀者だと考えていたが、証拠はなかった。最終的に、トーマス・ムーニーとウォーレン・ビリングスが犯人だとされた。しかし、二人ともバークマンと関係を持っておらず、その釈放を求めて大規模な運動が起こった。ムーニーは死刑、ビリングスは終身刑を言い渡されている。バークマンはロシア人のアナキストにアピールするため、ロシア革命の最中にあったペテルブルクのアメリカ大使館へのデモを組織した。アメリカやヨーロッパなどでも抗議デモは行われた。ウィルソン大統領がカリフォルニア州知事にムーニーの減刑を求め、州知事はそれに応じた。曰く、「(ムーニーの件での)バークマンによって書かれた筋書きは世界に通用するほどよくできていた」。
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