第2回航海 (1564–1565)
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「ジョン・ホーキンス」の記事における「第2回航海 (1564–1565)」の解説
2度目の航海は、成功だった。1564年、女王エリザベス1世はホーキンスと提携し、700トンの巨大キャラック船ジーザス・オブ・リューベック号(Jesus of Lübeck)を提供した。ホーキンスは3隻の小型船と共に、1回目よりも長期間でより遠くまでの航海を開始した。ホーキンスは海賊行為を働きながら、バルブラタ(Borburata)に向かった。バルブラタに到着するまでに、彼は400人程の奴隷を捕まえていた。バルプラタの後、リオ・デ・ラ・ハチャ(Rio de la Hacha)に向かった。スペイン当局者は、税をかけてホーキンスが奴隷を売ることを妨害しようとした。ホーキンスは税の支払いを拒み、「町を燃やすぞ」と脅した。奴隷を売却した後、彼は休息のため、フロリダのフランス人植民地に向かった。 1566年9月、イングランドに帰還した。遠征は成功し、彼に投資した人たちは60%の利益を得た。
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第2回航海(1772年 - 1775年)
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「ジェームズ・クック」の記事における「第2回航海(1772年 - 1775年)」の解説
第1回航海から帰還後、功績を認められて「軍艦を指揮する海尉」から海尉艦長(英語版)に昇進したクックは、王立協会から南方大陸(テラ・アウストラリス)探検隊の指揮を委任された。第1回航海のニュージーランド周航によって、ニュージーランドが南方の大陸とは繋がっていないこと、さらに、東海岸の測量によって、オーストラリアが大陸であろうことも、既に明らかにされていたのだが、テラ・アウストラリスはさらに南に存在するはずと王立協会はまだ信じていたのだった。こうして1772年7月12日、クックは第2回の探検航海に再び出帆した。 探検隊長のクックは、英国軍艦レゾリューション号を、トバイアス・ファーノーはアドベンチャー号を指揮した。アフリカ大陸南端から東進した一行はきわめて高緯度の地域を周航し、1773年1月17日にヨーロッパ人として初めて南極圏に突入した。これがいかに偉業であったかは、次の南極圏突入が50年後だったことからも明らかである。南極圏の濃い霧によってはぐれた2隻はニュージーランドで落ち合った後、南太平洋を東進してさらに南下し南緯71度10分まで到達した。その後もクックは探検を続けたが、ファーノーは先に英国へ帰還することになった矢先にマオリ族との戦いで10人の部下を失っている。 クックはもう少しで南極大陸を発見するところであったが、南方大陸が人類が居住可能な緯度には存在しないことを確かめ、伝説の南方大陸の探索に終止符を打った。補給のため北のタヒチへ進路を取り、オマイというタヒチ人の若者を伴って再び南へ向かったが、オマイは第1回航海のトウパイアほどは太平洋の地理に明るくなかった。帰り航海では、1774年にトンガ、イースター島、ニューカレドニア、バヌアツに上陸した後、ふたたび南下して南緯50度から55度付近の航路を取った。これによってクックは南極大陸北方の海を周航したことになり、南方大陸がこの緯度までには存在しないことを確定させた。この航海によって、南方の未確定領域は大幅に狭められた。クックはその後東進し、南アメリカ大陸南端を回り南ジョージア島と南サンドウィッチ諸島を発見した。 一行の帰国報告によって、テラ・アウストラリスの伝説は沈静化した。一方で、クックは彼が探検した海域の南方には大陸があることを予想していたが、それは人類が居住できるようなものではないことも予測していた。クロノメーターが活躍し正確な経度の決定が行われたことも、第2回航海の大きな業績であった。ちなみに、クックは南サンドウィッチ諸島をサンドウィッチ・ランドと命名したが、第3航海でクック自身が発見・命名したサンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)と区別するため後代の英国が南サンドウィッチ諸島とした。英国は1908年に公式に領有宣言、これに対しアルゼンチンも1938年に領有を宣言した。 多大な業績を挙げたクックは、帰国後に直ちに勅任艦長(ポスト・キャプテン)に昇進し、同時に海軍を休職して、グリニッジの海軍病院の院長に任命された。水兵から勅任艦長への栄進は、極めて稀な事例であった。壊血病予防に対する貢献に対して王立協会からコプリ・メダルを授与され、フェローにも選出された。しかし、未だ48歳のクックは海から離れるのに耐えられず、航海記を書き上げた直後に、彼の最後の航海となる第3回航海に出帆した。
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