ビーグル号の第2回航海
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「ロバート・フィッツロイ」の記事における「ビーグル号の第2回航海」の解説
1831年5月にフィッツロイはイプスウィッチ選挙区からトーリー党の候補として総選挙に出馬したが敗れた。彼は新しい地位を得て、失敗しつつあるようだった宣教活動を組織化することを望んだ。個人的な出費の元で船を借り上げ、マシューズを連れてフエゴ人を故郷に帰そうと考えた。ちょうど友人で海軍本部の水路調査官であったフランシス・ボーフォートと「親切なおじ」グラフトン公が海軍本部に掛け合い、1831年6月にビーグル号の艦長に再任命された。フィッツロイは船の装備を調えるために出費を惜しまなかった。 フィッツロイはストレスが多く孤独な艦長の立場と、前任のストークス、叔父のカスルリー子爵が自殺していることを非常に気にかけていた。そこで1831年にボーフォートに同乗する適当な紳士を探すよう依頼した。その同乗者は科学的な関心を共有し、自然史の研究の機会を生かすことができ、艦長と同等の立場でともに食事をとり、ごく普通の友情をはぐくむことができなければならなかった。その立場は最終的にチャールズ・ダーウィンに決まった。 イギリスを出発する前にフィッツロイはダーウィンにライエルの『地質学原理』の第1巻を贈った。その本は地球の特徴を漸進的に起きるプロセスの結果であると説明しており、フィッツロイは読み終わっていた。さらにフィッツロイ自身がライエルから氷河による漂石のような地質的な観察を記録するよう要請されていた。フィッツロイとダーウィンはよい関係を維持したが、5年の航海の間にはフィッツロイが激しい気性を爆発させ(士官からは「ホットコーヒー」とあだ名を付けられた)、口論することもあった。ダーウィンは後に「狂気の一歩手前」と回想した。 1831年3月にブラジルのバイーアで接した奴隷主の奴隷への振る舞いにダーウィンはぞっとした。しかしフィッツロイは、残忍な行為を支持しなかったものの、かつて奴隷主が自由になりたいかと奴隷に尋ねたときに奴隷はいいえと答えたことを話した。ダーウィンは率直に、奴隷が主人の前でそんな質問に正直に答えると思いますかとフィッツロイに尋ねた。フィッツロイはかっとなり、もし自分の言葉を疑うのであればもう一緒にやっていけないと言った。ダーウィンは艦長のテーブルから追い出されたが、その後でフィッツロイは激高したことを率直に謝罪した。このような口論はあったものの、航海の間、2人の意見の相違の中に宗教やキリスト教の教義の問題は含まれていなかった。 ティエラ・デル・フエゴの「ボタンの島」で彼らは布教の拠点を築いた。しかし彼らが島を離れて9日後に戻ると拠点は略奪されていた。マシューズはあきらめ、布教を続けるために島を離れた。フォークランド諸島で調査を効率的に行うために自分の出費で(のちに海軍が負担してくれることを願って)スクーナーを購入し、修理してアドベンチャー号と名付けた。再び布教拠点に戻ると地元の習慣に戻ったジェミー・ボタンだけがおり、イングランドへ一緒に行くことを拒否した。 1834年にヴァルパライソで、ダーウィンがアンデス山脈を探検している間、海軍本部はアドベンチャー号を購入したことを非難した。フィッツロイはひどく憤慨し、スクーナーを売って調査の再確認のために戻ると言った。それから自分の正気を疑い、艦長を辞めると言い出した。士官は辞任を撤回するよう説得した。フィッツロイは調査を再開し、ガラパゴス諸島、タヒチ、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、それからもう一度バイーアに戻って経度の測定をチェックした後、イギリスに帰国した。
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