教義
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教義(きょうぎ、英: dogma、ドグマ)とは、宗教の教えを体系化したもの。多岐に亘る宗教があり、そのいずれにも独自のこれが存在し、各々の宗教を信奉する人が、これに則って物事を理解したり判断する助けとなるものとされる。教理とは相違がある。転じて、一定集団の中においてのみ支持されているルールや考え方も、比喩的に教義と呼ばれることがある。また教義を絶対化する、あるいは固執する傾向を教条主義(英: dogmatism)という。
概要
これらは、宗教における様々な「教え」を明文化したもので、とくに公の会議で認められたものを教義という場合が多い。その一方で、それぞれの宗教における開祖の語録を引用して、それの解釈を含めて教義とする場合も多い。同じ開祖を持つ宗教であっても、その開祖の言動は様々に解釈され、その解釈の違いによって宗派が発生する。宗派は各々の事象に対して異なる見解を持つのが常であるが、これは教義に(特に解釈の部分にて)差異があるために他宗派と相容れなくなっていると思われる。
教義は様々な面で引用され、生活や思想の指針とされるが、稀に破壊的カルトに代表されるような反社会的な内容の教義を持つ宗教も存在する。しかし多くの人々に受け入れられている宗教にあっては、概ね同胞愛や博愛を説いて人と人との共存を呼び掛けており、決して異様な事柄が書き連ねてあったり、社会に混乱を招くようなものではないと考えられる。しかし宗教自体に否定的な人にあっては、この教義の存在からして、個人の自主性を否定するものであると考える人もある。
主要宗教の教義
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以下に挙げるのは、主要とされる宗教において、宗派の如何に関わらず認められる教義である。
キリスト教
「教義」と「教理」は異なる。「教理」がキリスト教という宗教の信仰内容についての教えであるのに対して、「教義」は教理に関して教会会議で定められたという意味での公的・法的な意味合いが強い。キリスト教の教理は例えば、以下のようなものであり、教義は例えば「ニカイア信条」、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」等に代表されるようなものである。神は唯一で、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の三位格を持つ(三位一体)存在である。神は始めに人間を含めた世界のすべてを創造し、それを良いものとしたが、人が神の命令に背き罪を犯したために、人は罪深い存在となった。神は人を愛する故に、御子イエスを遣わし、十字架の上で人が受けるべき神の裁きを身代わりとなり受けるに至った。イエスは十字架刑によって死ぬが、三日目に復活し、弟子たちの前に現れ、その後、天に昇り、聖霊としてこの世に降った。イエスが我々の罪の代わりに死に、神がイエスを甦らせ、イエスは神の子、救い主であると信じる者は、この世の終わりにおいて自分が受けるべき裁きをまぬがれ、救われ、神の国が完成する。
関連項目
教義
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「ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン」の記事における「教義」の解説
ヘンリーは、1905年5月のフォースター陸軍大臣へのメモと同じ程度以前から「思想の学校」が必要であると主張していた。学生に対する年初のスピーチにおいてヘンリーは、「管理の知識(参謀の骨が折れる単調な業務)」、「基礎体力」(ヘンリーは40代半ばだったが、ずっと若い参謀達に運動で引けを取らなかった)、「想像力」、「兵士と情勢への的確な判断」、そして「指揮官が遂行する作戦における不断の理解と意見具申」の必要性を強調した。英国軍事史家で大学教授のブライアン・ボンド(英語版)は、「ヴィクトリア女王時代の陸軍と幹部学校」において、ヘンリーの「思想の学校」は単なる参謀将校の一般的訓練だけでなく、徴兵制度への支持や、戦争勃発時にフランスに英国海外派遣軍(BEF)を送る公約も意味していたと主張しているが、キース・ジェフリーは、それはボンド教授の誤解であるとしている(ヘンリーの政治的信条は、多くの参謀と共有されていたが、ヘンリーが上述のような意図をもって主張したことを確認できる書面の証拠がないため)。 ヘンリーは、エドモンズ准将(当時、MO5(軍事諜報部)を運営)ほどスパイ活動の危険性を気にしていなかったが、1908年3月、2人のドイツ人の理髪師を潜在的スパイとして幹部学校から追放させた。ヘンリーは、1908年6月の国王誕生日の叙勲において、バス勲章(GCB)を授与された。1908年、ヘンリーは上級クラスに、ドイツがベルギーを侵略したと仮定して、フランスに海外派遣軍(BEF)を配備する計画を作成させた。が、その事が世間に漏れて下院において質問が行われ、翌年ドイツのベルギー侵略の仮定がなくなった時、学生達は、その演習は「秘密」だったのだとはっきり気付いた。ヘンリーは、フランス陸軍大学(Ecole Supérieure de Guerre Paris)を訪れた際、初めてフェルディナン・フォッシュ(当時、准将)に出会った(1909年12月のことであり、その後、1910年1月にスイスでの休日からの帰路に二人は再会している)。二人は良い交友関係を結び、二人ともドイツはヴェルダンとベルギーのナミュールの間を攻撃してくると思っていた(結果的には、ドイツ軍はそれよりもずっと西方を攻撃した)。ヘンリーは、フォッシュ准将とヴィクトル・ユーゲ大佐が1910年6月に英国を訪問するよう手配したが、彼は短期間に計画を策定しようとしていたので、フォッシュ准将の演習方法をコピーした(それは学生達が、指導教官から「行け!行け!」とか「早く!早く!」と怒鳴りつけられ、混乱させられるような屋外演習だった)。 ヘンリーは、ハーパー大佐(英語版)を伴って、将来、戦場になりそうな地域を偵察した。1908年8月、ヘンリーは、エドワード・パーシバル(Edward Percival (“Perks”))と一緒に電車と自転車を使ってナミュールの南方を調査し、1909年8月、ヘンリーはモンスから旅立って、フランス国境をほとんどスイスまで南下した。1910年の春には、今度は自動車でロッテルダムからドイツに旅行し、国境のドイツ側を調査し、ベルギーのザンクト・フィートとビットブルクの近郊に建設された新しい鉄道路線及び多くの支線(ドイツ軍をアルデンヌ近くに集中させることを可能にする)に気付いた。 ヘンリーは、少なくとも1905年には個人的に徴兵制度を支持していた。彼は、ホールデイン陸軍大臣の計画(民兵(ミリシア Militia)(英語版)、義勇兵(ヨーマンリー Yeomanry)(英語版)、義勇軍(英語版)を新たな国防義勇軍に統合する)は、ドイツ軍の訓練と効率性に対抗するには不十分と思っていた。1909年3月、ヘンリーはリベラルな(レピントンの影響でヘンリーはそう思い込んでいた)ウェストミンスター・ガゼット紙(英語版)の、ヘンリーが徴兵制度を支持しているという記事の後、ホールデイン陸軍大臣に呼び出された。1909年11月、学生に対する指導の中で、ヘンリーは、公に政府に反対しないが、それでは十分ではないだろうとほのめかした。彼の妻セシルは、同月、全国兵役連盟(英語版)の会議を催した。1907年11月、ヘンリーはホールデイン陸軍大臣にうまく働きかけ、新たな国防義勇軍に、訓練された参謀将校を供給するため幹部学校の規模を拡大させた(大臣は1908年3月の視察後、その拡大に同意した)。ヘンリーが有する教授が7名から16名に増える間に、学生の数は64名から100名になった。合計して陸軍224名、海軍22名の将校が彼の下で学んだ。 ヘンリーは、1910年1月、初めて議会(統一党)を支持して総選挙で投票した。。彼は「アスキス首相から打倒された過激派の嘘には胸が悪くなる。」と記している。
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