参謀将校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 04:49 UTC 版)
「ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン」の記事における「参謀将校」の解説
ヘンリーは1893年12月に幹部学校を卒業するとすぐに大尉(英国陸軍、海兵隊)に昇進した。彼は1894年の初め、インド第3大隊に配属されることになったが、アーサー (コノート公)に対するものを含む広範囲な陳情活動に失敗した後、ダブリンにおいて医師から配属延期の診断結果を得た。彼はその後2年間香港第1大隊に配属されることを知ったが、8月には別な大尉と交替できた(その大尉は服務期間中に死亡した)。ヘンリーがなぜそれほど海外勤務を避けたがっていたかに関する明確な証拠はない。レピントン中佐(英語版)(当時、陸軍省調査部のスタッフ長)は、同年7月、ヘンリーをフランス陸海軍の施設への出張に連れて行った。同年9月の連隊に対する短期間の勤務後、ヘンリーは、レピントン中佐の口添えで、同年11月陸軍省に異動し、初めは無給のアシスタントとして働き(ヘンリーは生活を乗り切るため、おじから小切手を受領した)、その後、レピントン中佐の業務を引き継いだ。 調査部は、1880年代後半にヘンリー・ブラッケンバリー将軍(英語版)によって創設され、一種の幕僚代理のようなものになった。ブラッケンバリー将軍の後、1891年4月には、ロバーツ卿の子飼いであるエドワード・チャップマン将軍(英語版)が引き継いだ。ヘンリーは、そこで1894年11月から3年間働いた。調査部は6つの部門(植民地防衛、4つの海外地域局、図書)があり、それぞれに補佐する部門附の将官(少将クラス)、スタッフ長、職員がいた。情報の多くは公の情報源又は大使館付武官からもたらされた。ヘンリーは、1895年11月からローリンソン大尉の「将校手帳」-ガーネット・ウォルズリー元帥(英語版)の旧版が土台になっている-の作成を手伝う時間を見出し、それは公式の「戦地勤務ポケット手帳」の誕生につながった。 ヘンリーは、A部門(フランス、ベルギー、イタリア、スペイン、ポルトガル及びラテンアメリカ担当)で勤務した。1895年4月、ほとんど毎日3時間超の集中的な個人指導を受けたにもかかわらずベルリン配属のためのドイツ語試験に失敗したが、5月5日(31歳の誕生日)に、A部門のスタッフ長をレピントン中佐から引き継ぎ、彼は英国陸軍で最も若い参謀将校となった。彼は任務によってパリ(同年6月、北部ニジェールのボルグ県への遠征について問い合わせるため)とブリュッセルに行った。
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