参謀から副総司令へとは? わかりやすく解説

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参謀から副総司令へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 04:29 UTC 版)

羅英徳」の記事における「参謀から副総司令へ」の解説

1941年以降ビルマにいたが、42年3月着陸失敗し負傷以後前線離れ空軍参謀学校2期生翌年卒業後は作戦参謀転じ航空委員会参謀処科長、中美空混合連隊指揮部参謀長、第1路司令部参謀長(長:張廷孟)。重慶にいた頃、韓国光復軍総務処長崔用徳要請文書輸送協力した終戦時航空委員会参謀処副処長復員業務韓国光復軍支援業務に関わった。9月米国空軍参謀学校正科班26期生。 帰国後、空軍総司令部作戦処処長を経て西安空軍第3軍区(長:劉国運参謀長1946年冬、北平及び瀋陽派遣され北平指揮所と瀋陽指揮所の主任となった東北韓僑事務処長の金弘壹知り合い北平天津活動していた崔用徳輸送関連協力した当時青島北平にはアメリカ陸軍航空隊1個大隊と1個中隊がそれぞれ駐留しており、その大隊長アメリカ留学時の同期生だったので協力得られた。これにより毎日米軍機天津北平瀋陽ソウル青島飛行した。崔に、いくつかの文書何人かの韓国人輸送依頼される米軍機援助させた。戦後再会した当初の崔は身に着けている服と靴がぼろぼろであり、それについて崔から「服はあるが、友人与えた」と聞くと、羅は、倉庫ある日本人冬服を彼らに供給した1946年11月22日空軍中校1948年4月下旬駐英空軍武官当時国民党敗色濃厚となっており、本国から給与送られ苦し状況強いられたそんな中国民政府を見限ろうとした英国当局軍備購入資金100万ポンド400ドル余り凍結する準備かかろうしたため防共意義説得して阻止した。この出来事蔣介石信任を受ける。 帰国後、台湾勤務始め国防部第二庁副庁長空軍総司令部情報署長1950年12月1日)、作戦署長1956年空軍作戦司令1957年空軍総司令部参謀長経て1961年6月国防部情報参謀次長1963年南ベトナムクーデターゴ・ディン・ジエム政権倒れると駐在武官筱堯と連絡取り現地情報収集努めた1966年3月空軍総司令1970年6月29日空軍二級上将1970年7月参謀本部特別助理官。同年9月、駐韓国全権大使1975年帰国し総統府戦略顧問77年7月退役し総統府顧問1987年末、膵臓がん発見され手術を受けるが再発翌年春、渡米しロサンゼルスにて治療を受けるも9月1日夜に死去した9月30日午前9時半台北市新生南路恩堂にて葬儀執り行われた。

※この「参謀から副総司令へ」の解説は、「羅英徳」の解説の一部です。
「参謀から副総司令へ」を含む「羅英徳」の記事については、「羅英徳」の概要を参照ください。

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