参謀から副総司令へ
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1941年以降はビルマにいたが、42年3月、着陸に失敗し負傷。以後前線を離れ、空軍参謀学校2期生。翌年卒業後は作戦参謀に転じ、航空委員会参謀処科長、中美空軍混合団連隊指揮部参謀長、第1路司令部参謀長(長:張廷孟)。重慶にいた頃、韓国光復軍総務処長の崔用徳の要請で文書の輸送に協力した。終戦時、航空委員会参謀処副処長。復員業務や韓国光復軍の支援業務に関わった。9月、米国空軍参謀学校正科班26期生。 帰国後、空軍総司令部作戦処処長を経て西安の空軍第3軍区(長:劉国運)参謀長。1946年冬、北平及び瀋陽に派遣され、北平指揮所と瀋陽指揮所の主任となった。東北韓僑事務処長の金弘壹と知り合い、北平と天津で活動していた崔用徳に輸送関連で協力した。当時、青島と北平にはアメリカ陸軍の航空隊1個大隊と1個中隊がそれぞれ駐留しており、その大隊長がアメリカ留学時の同期生だったので協力を得られた。これにより毎日、米軍機は天津、北平、瀋陽、ソウル、青島を飛行した。崔に、いくつかの文書と何人かの韓国人の輸送を依頼されると米軍機に援助させた。戦後に再会した当初の崔は身に着けている服と靴がぼろぼろであり、それについて崔から「服はあるが、友人に与えた」と聞くと、羅は、倉庫にある日本人の冬服を彼らに供給した。 1946年11月22日、空軍中校。1948年4月下旬、駐英空軍武官。当時、国民党の敗色は濃厚となっており、本国から給与も送られず苦しい状況を強いられた。そんな中、国民政府を見限ろうとした英国当局は軍備購入資金100万ポンド(400万ドル)余りを凍結する準備にかかろうとしたため、防共の意義を説得して阻止した。この出来事で蔣介石の信任を受ける。 帰国後、台湾で勤務を始め、国防部第二庁副庁長、空軍総司令部情報署署長(1950年12月1日)、作戦署署長、1956年空軍作戦司令、1957年、空軍総司令部参謀長を経て、1961年6月に国防部情報参謀次長。1963年、南ベトナムのクーデターでゴ・ディン・ジエム政権が倒れると駐在武官の李筱堯と連絡を取り現地の情報収集に努めた。1966年3月、空軍副総司令。 1970年6月29日、空軍二級上将。1970年7月、参謀本部特別助理官。同年9月、駐韓国全権大使。1975年帰国し総統府戦略顧問。77年7月に退役し、総統府国顧問。 1987年末、膵臓がんが発見され手術を受けるが再発。翌年春、渡米しロサンゼルスにて治療を受けるも9月1日夜に死去した。9月30日午前9時半,台北市新生南路恩堂にて葬儀が執り行われた。
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