参詣道の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 04:39 UTC 版)
このように中世における事例が見られるとはいえ、小辺路が参詣道として確立するのは近世になってのことであり、その呼称の初見も近世初期のことである。 小辺路の呼称を確認できる最古の史料は、寛永5年(1628年)に編纂された笑話集『醒睡笑』巻一に収められた次の小話で、小辺路の読み方(こへち)の典拠もここである。 へちまの皮とも思わぬとは、紀の国の山家に、大辺路・小辺路とて、峰高う岸けはしく、つづら折なるつたひ道、人馬の往来たやすからぬ切所あり。かのあたりに使ふ馬は、糠につけ藁につけ、大豆などは申すにおよばねば、実に骨ばかりなる様なり。さるほどに、かしこの馬、皮を剥ぎても、背のあと、瘡の跡疵のみにて、何の役にもたたぬ物を、へち馬の皮とも思はぬ事にいふならん。 — 「なんのへちまの皮」(「謂へば謂はるる物の由来」所収) 著者である安楽庵策伝は、『醒睡笑』を京都所司代板倉重宗に寛永5年(1628年)に献呈している。この成立年代を考えるならば、小辺路の名は早ければ戦国時代末期から近世初頭には知られていたことが推測できる。 小辺路には始点と終点のそれぞれにちなんだ呼称がいくつも付けられた。それらを一部挙げてみると、高野熊野街道、西熊野街道、熊野街道(『紀伊続風土記』)、高野道ないし熊野道 といったものが知られているが、近世の参詣記などでは高野道ないし熊野道と呼ばれる。また、奈良県教育委員会の調査報告によれば、小辺路の名は地元ではあまり用いられず、高野山や熊野に由来する「高野道」「高野街道」(野迫川村内)ないし「熊野道」「熊野街道」(十津川村内)と呼ばれることが多く、高野山ないし大師信仰との結びつきの強さも指摘できよう。こうした呼称の違いは、各地域と高野・熊野との結びつきや巡礼等の目的地の違いに依存すると考えられ、「小辺路」は参詣道全体を鳥瞰するような場合に用いられる名なのである。
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