その呼称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 18:22 UTC 版)
秀吉の現存する遺書の明文では、家康らを「五人の衆」、三成らを「五人の物」としており、それ以外の呼称は確認できない。 一方、秀吉の死の直前から、三成らは、家康らを「御奉行衆」、自分たちを「年寄共」とした文書を多数発給している。この中には家康ら「五人之御奉行衆」に宛てた起請文も含まれている。毛利輝元や宇喜多秀家の文書にも、自分たちを「奉行」とする文言がある。この用法には、「御奉行衆」を「秀頼の命を奉じて執行する代行者もしくは補佐役」とする意味合いが含まれているとされる。もとより家康にとっては不本意な呼称であり、その発給文書で豊臣家吏僚を「年寄」と呼んだのは一例限り、自身を「奉行」と呼んだ例はないとされる。 一方、島津義久の書状では「御老中衆・御奉行衆」と、加藤清正の書状では「日本御年寄衆・御奉行衆」と、それぞれ家康らと三成らを呼び分けているが、これらが従前からの呼称とみられる。また、輝元家臣の内藤隆春は三成らを「五人之奉行」とし、醍醐寺座主・義演も三成らを「五人御奉行衆」としており、それぞれの状況・立場に応じて呼称していたことが窺える。 関ヶ原の戦いの折、前田玄以・増田長盛・長束正家の三人は、家康弾劾状「内府ちかひの条々」を諸大名に発したが、その文中でも家康らを「御奉行衆」、自分たちを「年寄共」としている。だが家康に与した大名や徳川家臣団は、玄以らを「奉行」と呼び、けっして彼らを「豊臣家年寄」とみなしてはいなかった。 なお、家康らを「老中」「年寄」と呼んだ例は上記の通りあるが、「大老」と呼んだ例は同時代の史料にはない。この呼称は、江戸期に入ってから江戸幕府大老になぞらえて作られた造語であるとされる。「五大老」の呼称は山鹿素行『武家事紀』に、「五奉行」は小瀬甫庵『太閤記』などに見られ、のち「五大老・五奉行」という呼び分けが定着するに至った。
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