ラテン‐ばし【ラテン橋】
ラテン橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 02:45 UTC 版)
ラテン橋 (ボスニア語: Latinska ćuprija,クロアチア語: Latinska ćuprija,セルビア語: Принципов мост、ユーゴスラビア時代はプリンツィプ橋 Principov mostと呼ばれていた。)はボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォの中心市街を流れるミリャツカ川に架かるオスマン帝国時代からの歴史的な橋である。ラティンスキー橋とも呼ばれる[1]。橋の北端はガヴリロ・プリンツィプによりオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺され第一次世界大戦の契機となったサラエボ事件の現場である。
- ^ 小牟田哲彦『世界の鉄道紀行』講談社、2014年、271頁。ISBN 978-4-06-288275-0。
- ^ 再建された年代はラテン橋のそばに掲げられたボスニア歴史記念物保護委員会のパネルによる。
- ^ 『地球の歩き方 2017〜18 中欧』ダイヤモンド・ビッグ社、2017年、312頁。ISBN 978-4-478-06007-0。
- 1 ラテン橋とは
- 2 ラテン橋の概要
ラテン橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 05:07 UTC 版)
ラテン橋は、オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、ガヴリロ・プリンツィプに殺害された(そのため一時プリンツィプ橋と呼ばれた)、サラエヴォ事件の現場となった橋である。かつて木造だった橋は水害によって破壊され、1798年に再建された。1914年、この橋の北で、大公夫妻が暗殺され、第一次世界大戦のきっかけとなった。橋はユーゴスラビアの愛国主義を記念し、プリンツィプ橋と改称されたが、ユーゴスラビア崩壊後にその呼称はかつてのラテン橋に戻された。
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