ユーゴスラビア崩壊後とは? わかりやすく解説

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ユーゴスラビア崩壊後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/30 14:54 UTC 版)

ゴラジュデ」の記事における「ユーゴスラビア崩壊後」の解説

1992年から1995年にかけてのボスニア紛争時、ゴラジュデ6つあるボシュニャク人領土飛び地一つスレブレニツァジェパと共にスルプスカ共和国軍包囲されていた。1993年4月市民攻撃から守る国連安全地帯指定された。1994年3月30日から4月23日にかけてスルプスカ側は大規模な攻撃を町に行っている。その後、スルプスカの戦車前哨に対してあまり本格的でない空爆が行われ、NATO最後通牒スルプスカ共和国軍同意し重火器装甲車を町から20km離れた場所に引き上げている。しかしながら攻撃が終わるまでに694人の兵士市民死亡し1,917人が負傷している。ゴラジュデボスニア東部の町では唯一セルビア人による民族浄化が行われなかった町である。デイトン合意によってゴラジュデボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の間には陸回廊設定された。

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ユーゴスラビア崩壊後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 02:54 UTC 版)

ブニェヴァツ人」の記事における「ユーゴスラビア崩壊後」の解説

1990年代ユーゴスラビア崩壊の中で、ブニェヴァツ人は独自の民族として認められるようになった1996年にはブニェヴァツ人はこの地域の本来的な民族ひとつとして認定された。 しかし、ブニェヴァツ人の間では民族自認に関する問題終わったわけではなかった。1991年国勢調査では、ヴォイヴォディナ全域21,434人(うちスボティツァでは市の人口の11.7%にあたる17,527人)が、自身ブニェヴァツ人回答した一方74,808人がクロアチア人回答している。2002年国勢調査ではヴォイヴォディナ19,766人(うちスボティツァで10.59%にあたる19,766人)がブニェヴァツ人56,546人がクロアチア人回答した。ただし、ヴォイヴォディナクロアチア人がすべてブニェヴァツ人ではなくショカツ人その他のクロアチア人第二次世界大戦後ヴォイヴォディナ入植した29,111人のクロアチア人など)も含まれている。 スボティツァ市では、1991年ブニェヴァツ人17,439人、クロアチア人16,369であった古くからのブニェヴァツ人であるドニ・タヴァンクト(Donji Tavankut)では、989人がブニェヴァツ人877人がクロアチア人600人がユーゴスラビア人回答している。1996年スボティツァ市が独自に実施した調査によると、自身ブニェヴァツ人であり、民族的にクロアチア人属すると考えている者がこの多数いた一方民族的にブニェヴァツ人でありクロアチア人ではないと考えている者もいた。また調査では、ブニェヴァツ人クロアチア人性に肯定的な者と否定的な者の違いが、少数民族の権利擁護消極的な当時セルビア政府姿勢への支持不支持違い関連があることが示された。 その後も、ブニェヴァツ人たちの間で、「ブニェヴァツ人」が独自の民族であるかクロアチア人一部であるかについては見解わかれている。 2005年初頭ヴォイヴォディナ州政府が、次年度より学校民族文化などについて述べる際に「ブニェヴァツ語(bunjevački)」という用語を使用できる決定し、ふたたびブニェヴァツ人に関する問題注目された。この決定に対してブニェヴァツ人クロアチア人考える人々は抗議示した。彼らは、少数民族の権利はその民族人口によるのであり、自分たちはクロアチア人でいる方が良い考えている。逆の立場人々は、クロアチア人ブニェヴァツ人同化ようとしているとして非難した2011年ブニェヴァツ人政治家ブラシュコ・ガブリッチ(Blaško Gabrić)とブニェヴァツ人委員会セルビア政府に対してブニェヴァツ人民族性否定するクロアチア人対す法的訴訟始めるよう求めブニェヴァツ人民族性否認セルビア共和国憲法に反すると主張したハンガリーでは、ブニェヴァツ人は独自の少数民族とは認められておらず、彼らはクロアチア人として扱われるブニェヴァツ人団体2006年4月に、ブニェヴァツ人ハンガリー歴史的に存在してきた独自の民族として認めるよう求め署名募り始めた60日が経過したあと、2000超える署名あつまりうち1700程度選挙管理委員会によって有効と認められたため、ブダペストハンガリー国議会2007年1月9日までにこの問題対する対応を決める必要が生じた。これは、ハンガリー1992年少数民族法が成立して以来初めてのことであった2006年12月18日ハンガリー国議会はこの要求否決した賛成18反対334)。この決定は、ブニェヴァツ人の独自の民族性否定するハンガリー科学アカデミー調査基づいたものであった調査ではブニェヴァツ人クロアチア人一部であるとしている)。また、この要求反対したクロアチア人代表者らによる影響もあった。 ヴォイヴォディナブニェヴァツ人委員会は、ヴォイヴォディナ人民民主党党首2007年1月セルビア議会選挙民主党候補者となっていた、自らを民族的にブニェヴァツ人認識しているミルコ・バイッチ(Mirko Bajić)を推薦することを決定した

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ユーゴスラビア崩壊後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 14:45 UTC 版)

モンテネグロの歴史」の記事における「ユーゴスラビア崩壊後」の解説

1980年代から冷戦構造崩壊1991年から1992年ユーゴスラビア共産党崩壊複数政党制導入のため、同じく連邦形成していたスロベニアクロアチア1991年分離独立宣言80年代終わり短期間反政府的な若い指導者モンテネグロ現れた。 ミロ・ジュカノヴィッチ、モミル・ブラトヴィッチ(英語版)、そしてスベトザル・マロヴィッチの3人が実質的に共和国運営した。彼らは全員いわゆる「反官僚主義革命」の間に権力一掃しスロボダン・ミロシェヴィッチに近づいた若い党員によって、ユーゴスラビア共産党内の幾つかの運営組織結成した。3人はみな表面上は共産主義者献身的であったが、変化時代に古いものに固執する危険性理解する融通性持っていた。複数政党制に代わったとき、彼らはすばやく共産党モンテネグロ支部モンテネグロ民主社会党DPS)に改名した。 旧共産党地盤相続により、モンテネグロ民主社会党対抗勢力とはかなりの差をつけ、議会選挙大統領選挙圧倒的な勝利を収めた。この政党モンテネグロ政権2006年現在も(連立政権であるが)担っており、政権磐石である。 1990年代初めモンテネグロ指導者ミロシェヴィッチ戦争ユーゴスラビア紛争)にかなりの助力をした。モンテネグロ予備軍ドゥブロヴニク前線戦った。そこはミロ・ジュカノヴィッチ首相がよく訪問したところである。 1992年4月住民投票の結果、ブラトヴィッチ大統領とジュガノヴィッチ首相モンテネグロと、ミロシェヴィッチ政権下のセルビアが、「ユーゴスラビア連邦共和国」(FRJ通称新ユーゴ)として合同することに合意したユーゴスラビア社会主義連邦共和国から新しく独立した国々を除く、連邦に留まったセルビアとモンテネグロによって新し連邦構成されることになった。しかし、まもなく、ボスニアクロアチアでの紛争行った所行ゆえに、国際連合FRJ対す経済制裁課した。これは国内の生活の様々な局面影響しモンテネグロ先の紛争評判悪化していたセルビアとの距離を置き始めたアドリア海通じており、かつシュコダル湖アルバニアとの間の水運有しているといった地理的位置有利さゆえ、モンテネグロ密輸活動結節点になったモンテネグロ工業生産全体的に停滞し主要な経済活動消費財密輸になった。特に、ガソリンタバコ多くどちらも価格うなぎのぼりであった政府非合法活動目をつぶるどころか、ほとんど自らも参加した密輸によっていかがわしい人々の中から億万長者出た。それには高級官僚含まれていた。ミロ・ジュカノヴィッチは、手広く密輸手を染めイタリアさまざまなマフィア成員に、モンテネグロでの安全圏提供したことに対して多くイタリア裁判直面し続けたマフィアたちは既に密輸分け前連鎖参加していたのである1997年大統領選挙ではこれらが議論の的となりミロ・ジュガノヴィッチが2回に渡る投票の末、僅差勝利、モミル・ブラトヴィッチ政権終焉した。以前密接な同盟者は敵となり、1997年秋の数ヶ月間でモンテネグロには戦争のような雰囲気がかもしだされていた。そしてさらに1998年新ユーゴスラビア連邦大統領ミロシェビッチはブラトヴィッチを連邦首相に任命したが、ブラトヴィッチはジュガノヴィッチに敵対的行動取り先の選挙では憲法違反存在した主張した。しかしそれは、モンテネグロ社会人民党分裂招いた。ブラトヴィッチと彼の支持者たちは社会人民党離脱してミロシェヴィッチ忠実でありつつけたが、一方のジュガノヴィッチはセルビアとは距離をとり始め事実上連邦制機能しなくなっていた。この距離のため1999年春のコソボ紛争において、北大西洋条約機構セルビア激し爆撃加えた時、モンテネグロ被害は割に軽微だったものの、数万人のアルバニア避難民押し寄せる事となった。 ジュガノヴィッチはこの政策論争明らかな勝利者となった。ブラトヴィッチは1997年以降もはや政府掌握できず、2001年には政界から引退したゾラン・ジンジッチ率いる新セルビア政権のもと、ミロシェヴィッチハーグ国際司法裁判所送られた。

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