ユーゴスラビア崩壊後
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1992年から1995年にかけてのボスニア紛争時、ゴラジュデは6つあるボシュニャク人領土の飛び地の一つでスレブレニツァ、ジェパと共にスルプスカ共和国軍に包囲されていた。1993年4月に市民を攻撃から守る国連の安全地帯に指定された。1994年3月30日から4月23日にかけてスルプスカ側は大規模な攻撃を町に行っている。その後、スルプスカの戦車と前哨隊に対してあまり本格的でない空爆が行われ、NATOの最後通牒にスルプスカ共和国軍は同意し重火器や装甲車を町から20km離れた場所に引き上げている。しかしながら、攻撃が終わるまでに694人の兵士や市民が死亡し1,917人が負傷している。ゴラジュデはボスニア東部の町では唯一、セルビア人による民族浄化が行われなかった町である。デイトン合意によってゴラジュデとボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の間には陸回廊が設定された。
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ユーゴスラビア崩壊後
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「ブニェヴァツ人」の記事における「ユーゴスラビア崩壊後」の解説
1990年代のユーゴスラビアの崩壊の中で、ブニェヴァツ人は独自の民族として認められるようになった。1996年にはブニェヴァツ人はこの地域の本来的な民族のひとつとして認定された。 しかし、ブニェヴァツ人の間では民族自認に関する問題が終わったわけではなかった。1991年の国勢調査では、ヴォイヴォディナ全域で21,434人(うちスボティツァでは市の人口の11.7%にあたる17,527人)が、自身をブニェヴァツ人と回答した一方、74,808人がクロアチア人と回答している。2002年の国勢調査ではヴォイヴォディナで19,766人(うちスボティツァで10.59%にあたる19,766人)がブニェヴァツ人、56,546人がクロアチア人と回答した。ただし、ヴォイヴォディナのクロアチア人がすべてブニェヴァツ人ではなく、ショカツ人やその他のクロアチア人(第二次世界大戦後にヴォイヴォディナに入植した29,111人のクロアチア人など)も含まれている。 スボティツァ市では、1991年にブニェヴァツ人は17,439人、クロアチア人は16,369人であった。古くからのブニェヴァツ人の村であるドニ・タヴァンクト(Donji Tavankut)では、989人がブニェヴァツ人、877人がクロアチア人、600人がユーゴスラビア人と回答している。1996年にスボティツァ市が独自に実施した調査によると、自身をブニェヴァツ人であり、民族的にはクロアチア人に属すると考えている者がこの村に多数いた一方、民族的にブニェヴァツ人でありクロアチア人ではないと考えている者もいた。また調査では、ブニェヴァツ人のクロアチア人性に肯定的な者と否定的な者の違いが、少数民族の権利擁護に消極的な当時のセルビア政府の姿勢への支持と不支持の違いと関連があることが示された。 その後も、ブニェヴァツ人たちの間で、「ブニェヴァツ人」が独自の民族であるかクロアチア人の一部であるかについては見解はわかれている。 2005年初頭、ヴォイヴォディナ州政府が、次年度より学校で民族文化などについて述べる際に「ブニェヴァツ語(bunjevački)」という用語を使用できると決定し、ふたたびブニェヴァツ人に関する問題が注目された。この決定に対して、ブニェヴァツ人をクロアチア人と考える人々は抗議を示した。彼らは、少数民族の権利はその民族の人口によるのであり、自分たちはクロアチア人でいる方が良いと考えている。逆の立場の人々は、クロアチア人がブニェヴァツ人を同化しようとしているとして非難した。2011年、ブニェヴァツ人の政治家ブラシュコ・ガブリッチ(Blaško Gabrić)とブニェヴァツ人委員会はセルビア政府に対して、ブニェヴァツ人の民族性を否定するクロアチア人に対する法的訴訟を始めるよう求め、ブニェヴァツ人の民族性否認はセルビア共和国の憲法に反すると主張した。 ハンガリーでは、ブニェヴァツ人は独自の少数民族とは認められておらず、彼らはクロアチア人として扱われる。ブニェヴァツ人の団体が2006年4月に、ブニェヴァツ人をハンガリーに歴史的に存在してきた独自の民族として認めるよう求める署名を募り始めた。60日が経過したあと、2000を超える署名があつまりうち1700程度が選挙管理委員会によって有効と認められたため、ブダペストのハンガリー国民議会は2007年1月9日までにこの問題に対する対応を決める必要が生じた。これは、ハンガリーで1992年に少数民族法が成立して以来、初めてのことであった。2006年12月18日、ハンガリー国民議会はこの要求を否決した(賛成18、反対334)。この決定は、ブニェヴァツ人の独自の民族性を否定するハンガリー科学アカデミーの調査に基づいたものであった(調査ではブニェヴァツ人はクロアチア人の一部であるとしている)。また、この要求に反対したクロアチア人の代表者らによる影響もあった。 ヴォイヴォディナのブニェヴァツ人委員会は、ヴォイヴォディナ人民民主党の党首で2007年1月のセルビア議会選挙の民主党の候補者となっていた、自らを民族的にブニェヴァツ人と認識しているミルコ・バイッチ(Mirko Bajić)を推薦することを決定した。
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ユーゴスラビア崩壊後
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「モンテネグロの歴史」の記事における「ユーゴスラビア崩壊後」の解説
1980年代からの冷戦構造の崩壊と1991年から1992年のユーゴスラビア共産党の崩壊と複数政党制の導入のため、同じく連邦を形成していたスロベニアとクロアチアは1991年に分離独立を宣言、80年代終わりの短期間で反政府的な若い指導者がモンテネグロに現れた。 ミロ・ジュカノヴィッチ、モミル・ブラトヴィッチ(英語版)、そしてスベトザル・マロヴィッチの3人が実質的に共和国を運営した。彼らは全員、いわゆる「反官僚主義革命」の間に権力を一掃し、スロボダン・ミロシェヴィッチに近づいた若い党員によって、ユーゴスラビア共産党内の幾つかの党運営組織を結成した。3人はみな表面上は共産主義者に献身的であったが、変化の時代に古いものに固執する危険性を理解する融通性も持っていた。複数政党制に代わったとき、彼らはすばやく共産党モンテネグロ支部をモンテネグロ民主社会党(DPS)に改名した。 旧共産党の地盤相続により、モンテネグロ民主社会党は対抗勢力とはかなりの差をつけ、議会選挙、大統領選挙に圧倒的な勝利を収めた。この政党はモンテネグロの政権を2006年現在も(連立政権であるが)担っており、政権は磐石である。 1990年代初め、モンテネグロの指導者はミロシェヴィッチの戦争(ユーゴスラビア紛争)にかなりの助力をした。モンテネグロ予備軍はドゥブロヴニク前線で戦った。そこはミロ・ジュカノヴィッチ首相がよく訪問したところである。 1992年の4月、住民投票の結果、ブラトヴィッチ大統領とジュガノヴィッチ首相のモンテネグロと、ミロシェヴィッチ政権下のセルビアが、「ユーゴスラビア連邦共和国」(FRJ、通称・新ユーゴ)として合同することに合意した。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国から新しく独立した国々を除く、連邦に留まったセルビアとモンテネグロによって新しい連邦は構成されることになった。しかし、まもなく、ボスニアとクロアチアでの紛争で行った所行ゆえに、国際連合はFRJに対する経済制裁を課した。これは国内の生活の様々な局面に影響し、モンテネグロも先の紛争で評判が悪化していたセルビアとの距離を置き始めた。 アドリア海に通じており、かつシュコダル湖がアルバニアとの間の水運を有しているといった地理的位置の有利さゆえ、モンテネグロは密輸活動の結節点になった。モンテネグロの工業生産は全体的に停滞し、主要な経済活動は消費財の密輸になった。特に、ガソリンとタバコが多く、どちらも価格はうなぎのぼりであった。政府は非合法活動に目をつぶるどころか、ほとんど自らも参加した。密輸によっていかがわしい人々の中から億万長者が出た。それには高級官僚も含まれていた。ミロ・ジュカノヴィッチは、手広く密輸に手を染め、イタリアのさまざまなマフィアの成員に、モンテネグロでの安全圏を提供したことに対して、多くのイタリアの裁判に直面し続けた。マフィアたちは既に密輸の分け前の連鎖に参加していたのである。 1997年の大統領選挙ではこれらが議論の的となりミロ・ジュガノヴィッチが2回に渡る投票の末、僅差で勝利、モミル・ブラトヴィッチ政権は終焉した。以前の密接な同盟者は敵となり、1997年秋の数ヶ月間でモンテネグロには戦争のような雰囲気がかもしだされていた。そしてさらに1998年、新ユーゴスラビア連邦大統領ミロシェビッチはブラトヴィッチを連邦首相に任命したが、ブラトヴィッチはジュガノヴィッチに敵対的行動を取り、先の選挙では憲法違反が存在したと主張した。しかしそれは、モンテネグロ社会人民党の分裂を招いた。ブラトヴィッチと彼の支持者たちは社会人民党を離脱してミロシェヴィッチに忠実でありつつけたが、一方のジュガノヴィッチはセルビアとは距離をとり始め、事実上連邦制は機能しなくなっていた。この距離のため1999年春のコソボ紛争において、北大西洋条約機構がセルビアに激しい爆撃を加えた時、モンテネグロの被害は割に軽微だったものの、数万人のアルバニア避難民が押し寄せる事となった。 ジュガノヴィッチはこの政策論争で明らかな勝利者となった。ブラトヴィッチは1997年以降もはや政府を掌握できず、2001年には政界から引退した。ゾラン・ジンジッチ率いる新セルビア政権のもと、ミロシェヴィッチはハーグの国際司法裁判所に送られた。
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