連邦首相にとは? わかりやすく解説

連邦首相に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 07:55 UTC 版)

ヘルムート・コール」の記事における「連邦首相に」の解説

ところが1982年9月財政再建新自由主義を取るか社会保障社会民主主義を取るかで与党FDPSPD決裂コールすかさずFDP連立協議し、10月1日ヘルムート・シュミット首相に対す建設的不信任決議案提出。この案にFDP同調してシュミット罷免コールの第6代連邦首相就任決まった建設的不信任決議案提出されたのは2度目だが(既述)、可決したのは今のところこれが唯一の例である。副首相兼外相にはシュミット政権時代同様、連立与党FDPハンス・ディートリヒ・ゲンシャーおさまった。しかしこのようなやり方政権奪取したうえ、長らく地方政界にあり、前任者ブラントシュミット比較して国際政治通暁していないとしてコールの手腕を不安視する向きもあった。このためコール政権発足後の1982年12月内閣信任決議案提出、これを与党議員欠席意図的に否決させることで、大統領議会解散令を引き出した総選挙1983年3月実施され連立与党勝利を収め、ようやく政権安定したコール最初に取り組んだのは、ワルシャワ条約機構に対して抑止力となるNATO軍事力強化ミサイル配備)で、国内での平和運動盛んになる中、これを実行した隣国フランスとの同盟強化にも努め1984年にはフランス大統領フランソワ・ミッテランと共に第一次世界大戦の激戦地ヴェルダン訪問し二人で手を繋いで戦死者鎮魂両国友好誓った。この姿は独仏関係新時代象徴するものとして有名であり、のちに独仏連合部隊独仏共同テレビアルテ創設さらにはマーストリヒト条約締結欧州共同通貨ユーロ導入での「独仏枢軸」と呼ばれる緊密な協力関係へと繋がっていく。アメリカとの友好にも努め1985年にはロナルド・レーガン大統領と共に第二次世界大戦米独両軍戦死者が眠るビットブルク墓地献花したが、この墓地にはナチス武装親衛隊員も葬られていたため、批判する声もあった(ビットブルク論争de:Bitburg-Kontroverse)。 内政では、FDPとの連立ということもあり、当時先進国首脳だったマーガレット・サッチャーロナルド・レーガンに近い政策であるといわれている。ただしイギリスアメリカ比べドイツでは伝統的に社会民主主義が強いので、それへの配慮もあった。1987年連邦議会選挙にも勝利してコール政権3期目に入る。

※この「連邦首相に」の解説は、「ヘルムート・コール」の解説の一部です。
「連邦首相に」を含む「ヘルムート・コール」の記事については、「ヘルムート・コール」の概要を参照ください。

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