連邦首相辞任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:43 UTC 版)
ブラントはギヨーム逮捕と共に引責辞任し当時は責任をとってと見られていた。しかしギヨーム逮捕直後の5月1日、当時ゲンシャー内相の腹心だったクラウス・キンケルがブラントに示した連邦検事局長官から内相に宛てた手紙から、検事局が首相の私生活に関する情報収集を行い、ブラントの女性関係を問題にしていたことがブラントにとって痛撃となった。 ブラントには在任中に女性問題やアルコールに関する噂が絶えず、それを野党やメディアに激しく攻撃されて健康状態を悪化させるほどの精神状態になっており、ノラウ長官にとってはこの女性問題と首相の傍に東側スパイがいたという二重のスキャンダルの深刻化を恐れていた。 そして1974年5月4日にボン郊外での党指導部の会合の折りにヴェーナーに厳しく叱責されたブラントは5月6日にハイネマン大統領宛て辞表を提出した。スパイ事件との関わりで不注意のあった政治的責任をとる旨を記していた。そして財務相のヘルムート・シュミットに連邦首相の座を譲った。
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