初代連邦首相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 16:50 UTC 版)
「コンラート・アデナウアー」の記事における「初代連邦首相」の解説
西ドイツ(西側連合国占領地)で行われた1949年8月の第一回ドイツ連邦議会選挙に出馬し当選、CDUの連邦幹事長となり、9月15日の議会での投票でドイツ社会民主党(SPD)候補のクルト・シューマッハーに1票差で競り勝って初代連邦首相に選出され、翌日初代連邦大統領テオドール・ホイスにより正式に任命された。当時はまだ西ドイツに防衛・外交の自主権はなく、連合国が管掌していた。同年9月の連邦議会で、西ドイツの暫定首都がフランクフルト・アム・マインでなくボンになったことは、アデナウアーの意思が大きな影響を与えたものとされている。1950年にはCDUが全国組織として発足し、アデナウアーは初代党首に就任する。 戦争被害者の社会復帰が西ドイツの復興に繋がり、壊滅的な敗戦で分散した国民を一体化させる効果が有るとして、1950年連邦援護法(Bundesversorgungsgesetz 戦争犠牲者の援護に関する法律)を制定し、一般国民も軍人と同等の援護を受けられるよう、医療費は無料とし、機能に障害の無い火傷のケロイドも大変重い障害とした。連邦援護法の財源は、戦争被害の少ない企業からの税徴収と連邦政府で負担調整基金を設立し、被害の多い個人と企業を援護した。なお、後に東西が統一ドイツになると、ドイツ統一条約に基づき、東ドイツ居住のドイツ人にも1991年1月から適用された。 アデナウアーは1953年、1957年、1961年の連邦議会選挙を勝ち抜き、14年に亘って連邦首相を務めることになった。とりわけ1957年の選挙ではCDUとキリスト教社会同盟(CSU、CDUのバイエルン地域政党)が連邦議会議席の半数を獲得した。西ドイツの再建を指導し、ルートヴィヒ・エアハルトを重用して経済成長に寄与した。
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