初代鈴木岩治郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:09 UTC 版)
武蔵国川越(現埼玉県川越市)の足軽の次男として生まれる。生後すぐに魚屋に養子に出されるが12歳頃に養子先から出て菓子商の丁稚となる。その後神戸、長崎へ菓子屋奉公をしながら移り住み、大阪の米雑穀問屋の辰巳屋の下働きとなる。辰巳屋は小間物商から始まり、砂糖商としても成功しており、1874年(明治7年)に店の一つを譲り受け神戸に鈴木商店を開業。 1877年(明治10年)に、姫路銀行の頭取岡玖平の媒介で姫路の漆商丹波屋の娘西田よねと結婚。よねは再婚であった。1882年(明治15年)に神戸石油商会を設立、樟脳、ハッカと商いを広げていった。1886年(明治19年)には神戸有力八大貿易商のひとつにまで発展した。 神戸の砂糖は当時、香港のバターフィールドとジャーディン・マセソンの砂糖の輸入に限られ、神戸外国人居留地の代理店を通し、辰巳屋女婿の藤田助七ら特定販売人に独占されていたため、岩治郎は両替商などをしていたが、明治21年頃に香港市場から一千俵の砂糖を買入れ、精糖の直輸入を始める。 1891年(明治24年)に神戸商業会議所議員に当選。 1894年(明治27年)に病気で急逝。その後、遺されたよねが金子直吉らと鈴木商店を世界的企業に成長させていくこととなる。
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