アデナウアーの引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:43 UTC 版)
「ヴィリー・ブラント」の記事における「アデナウアーの引退」の解説
社会民主党(SPD)内でのブラントの声望も高まり、初めて社会民主党の連邦首相候補となった1961年9月17日の連邦議会選挙でキリスト教民主同盟(CDU)の首相候補で現職のコンラート・アデナウアーから私生児であることや亡命の経歴を攻撃されたが、この選挙で社会民主党(SPD)はほぼ5%の票数増と13名の議席増で36.2%・190議席の得票で躍進した。しかし結局キリスト教民主同盟(CDU)もキリスト教社会同盟(CSU)と合わせて45.3%・242議席の得票で自由民主党(FDP)12.8%・67議席との連立に成功し、ブラントの政権奪取はならなかった。この時にアデナウアー首相は、それまでの強引な政治姿勢で連立与党の自由民主党(FDP)との齟齬を生んで一時連立から離れ、キリスト教民主同盟(CDU)内で自己の後継者問題を巡って党内に波紋を引き起こし、しかもベルリンの壁の建設で再統一の現実味を失い、直後の行動で顰蹙をかって、単独過半数を確保出来なかったことで、自由民主党(FDP)との連立交渉が難航して、自身が会期末までに首相を辞任する約束をすることで政権を継続させた。そして1963年10月にアデナウアーは連邦首相を辞任し、経済相であったルートヴィヒ・エアハルトが第2代の連邦首相に就任した。
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