アデナウアー外交
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「コンラート・アデナウアー」の記事における「アデナウアー外交」の解説
1951年に西ドイツの外交主権が回復されると、外務大臣を兼任したアデナウアーはフランスをはじめとする旧連合国との和解に強力な指導力を発揮し、1955年5月5日に連合国とパリ条約を締結して主権を正式に回復、1963年ドイツとフランスは仏独協力条約(エリゼ条約)に調印した。この条約にはフランス大統領シャルル・ド・ゴールとの個人的友好関係が大きく寄与したといわれる。経済的にもマーシャル・プランを基に経済復興を進め、欧州石炭鉄鋼共同体、欧州経済共同体、欧州原子力共同体に加盟。この外交関係は現在の欧州連合へと発展していく。1954年には、ヨーロッパの理念と平和に貢献した人を称えるカール大帝賞をアーヘン市から受賞した。 アデナウアー政権下で西ドイツは再軍備を許され、北大西洋条約機構(NATO)に加入した。一方でアデナウアーは、ソビエト連邦や東側諸国との国交を結んだ。1955年にはモスクワを訪問しソ連に残っていたドイツ人戦争捕虜の帰国を実現した。但しハルシュタイン原則を掲げ、ソ連軍占領地に誕生した東ドイツは承認せず、また1955年にBNDを創設し、翌年にはドイツ共産党を非合法化するなど、共産主義に心を許していたわけではない。再軍備を進める一方で、1952年12月3日には旧軍の名誉回復演説をおこなっている。 1952年3月27日、ミュンヘン警察署でアデナウアー宛の小包が爆発し、警察官1人が死亡した。捜査の結果この犯行にはイスラエルのユダヤ人テロ組織イルグンやその指導者メナヘム・ベギン(のち同国首相)の関与が明らかとなったが、ナチス政権下のドイツによるホロコーストの記憶も生々しい当時、両国の間で外交問題に発展することを避けるため、事件背景は発表はされず容疑者はイスラエルに国外追放された。この措置にイスラエル初代首相ダヴィド・ベン=グリオンは感謝したといわれる。 1955年にはイスラエルとルクセンブルク協定を結び、ホロコースト生存者に対して1人当たり3000マルク、総計34億5000万マルクを支払った。1960年にはニューヨークのウォルドルフ=アストリアでベン=グリオンと初会談し、巨額の借款を実現した。さらに、1966年にはドイツの重鎮政治家として初めてイスラエルを訪問している。ただしニュルンベルク法制定に関わった人物への激しい批判にも関わらず、ハンス・グロプケを連邦首相府長官として重用し続けるなど、その姿勢は批判を受けた。
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