事件背景
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本事件は、フランス王フィリップ4世ル・ベル(le Bel、端麗王)の治世末期に起きた。 フィリップ4世は寡黙かつ酷薄な性格をしており、その人柄を同時代のパミエ司教は「人でも動物でもなく、石像である」と表現し、当時の歴史家は「キリスト教の王威と名声を築き上げ、肉体における弱点をほとんど見せなかった」と記録している。 フィリップ4世は治世中、フランス王家の権威と名声を築き、国家に新たな現金収入源となる産業を生み出し、さらに新たな政府機関を作り、戦争になれば国王自ら参戦し、時にはカトリック教会勢力に異論を唱え、絶対王政を目指し奔走した。 しかし、政策には多額の投資が必要とされ、その都度、テンプル騎士団に融資を請い、結果的に1314年までの間に負債は膨れ上がり、フランス王国は財政難に陥り、国政はますます困難となった。 フィリップ4世は、事件発覚直前に、フランス王国財政難の打開策として、融資を受けていたテンプル騎士団の裕福な財力に目を付け、彼らに濡れ衣を着せて異端審問に掛けて処刑し、騎士団の資産を没収し、フランス王家の借金帳消しにすることに尽力していた。 さらに、本事件によりフランス王の地位は弱体化し、フィリップ4世には成人した王子が3人もいたにも関わらず、カペー朝は断絶に至った。 フィリップ4世には、亡き王妃でありナバラ女王のジャンヌ・ド・ナヴァールとの間にルイ、シャルル、フィリップという3人の王子がおり、当時の慣習に従い、3人とも政治的に有益な家の娘と政略結婚させた。 当初、フィリップ4世は王太子でありナバラ王位を譲った長男ルイの妃にブルゴーニュ伯オトン4世の娘ジャンヌを迎えようと考えていたが、最終的には1305年、ブルゴーニュ公ロベール2世の娘マルグリットを王太子妃に選んだ。 マルグリットの母アニェスは先々代フランス王ルイ9世の王女でフィリップ4世の叔母にあたり、マルグリットとフィリップ4世は義理の父娘であると同時に祖父を同じくした従兄妹同士に当たる。 親族同士での婚姻により、一族の結束を固め権力拡大を図った。当初ルイの妃にする予定であったジャンヌは、次男フィリップと1307年に結婚させ、1308年にジャンヌの実妹ブランシュと三男シャルルを結婚させた。 3兄弟夫婦の結婚生活は個々多様であった。 特に、長男ルイと妃マルグリットの結婚は、3兄弟の夫婦の中でも不幸なものであったとされ、ルイはすらりとした体型で見目が良いが、押しが強い性格で「熱烈な曲線美」と称されていたマルグリットとは一緒に過ごしたがらず、ジュ・ド・ポームに熱中することを好んだとされている。 対照的に次男フィリップは本事件における妻ジャンヌへの大変な寛容さで注目された。2人は短い間の夫婦生活でもうけた子どもの数も多く、フィリップは書面は定型化されてはいたものの、長年にわたって妻に多くの恋文を書いて送っていた。 三男シャルルは兄弟の中でも比較的保守的な性格で「厳格で堅苦しい」もしくは「頑固」と評された人物ではあったが、ブランシュとはごく平凡な結婚生活を送っていた。 一方、フィリップ4世は、1308年に娘イザベルをイングランド王エドワード2世と結婚させ、ガスコーニュとフランドルの統治権を巡った2国の対立問題による緊張の緩和を図った。 王女イザベルの結婚は、夫エドワードと親友かつ男色関係であった寵臣コーンウォール伯ピアーズ・ギャヴィストンの存在により破綻し、イザベルは夫及びギャヴィストンと対立していた。 イザベルは夫の廃位を画策し、実家であるフランス王家に助力を求め、彼女の父王を頻繁に訪ねた。
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事件背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 00:16 UTC 版)
稲葉は1953年に北海道門別町に生まれる。北海高等学校を経て、東洋大学では柔道部で活躍した。1976年に道警へ入り、暴力団捜査に長く携わった。 金丸信副総裁狙撃事件をはじめ全国的に続発する拳銃事件に対し、警察庁は1993年頃から全国の警察へ大号令をかけた銃器摘発キャンペーンを受け、道警は1993年4月、防犯部(現:生活安全部)に銃器対策室(1996年に課へ改組)を設置し、稲葉は旭川中央署から初代捜査員の一人として配属された。 2001年4月に警部へ昇進し、生活安全特別捜査隊へ異動するまでの8年間で、稲葉は約100丁近い拳銃を押収した。銃器対策課の元捜査員は、「稲葉! 今月も何とかならんか」と幹部がげきを飛ばすと、通常なら10回は捜査するところを、稲葉は数日後にいとも容易く拳銃を押収してくる、というやり取りが繰り返されていたと話している。その多くは、誰が持ち主かわからないまま押収される「首なし銃」と呼ばれる拳銃であり、そのほとんどが捜査協力者との裏取引で手に入れたものであった。後の公判で稲葉は、約70丁が捜査協力者から入手し、摘発を装ったものと述べている。なお「首なし銃」については、1993年の銃刀法改正による「自首減免」制度が大きく影響している。 稲葉は暴力団員らと接触して捜査協力者を増やし、情報入手のために飲食代を負担したり小遣いを渡したりしていたが、資金の工面に困るようになる。そのため、協力者とともに拳銃や覚せい剤の密売に手を染めるようになった。 稲葉は密売で手に入れた金を、交際していた巡査部長(後述)との交際費や、輸入車の購入にも使っていた。 稲葉のことを自供したWも捜査協力員の1人であり、稲葉とは長年親密な関係にあった。Wは小樽港で、中古車の輸出などに関わっていた が、稲葉と金銭トラブルが生じたため、自供する道を選んだ。
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事件背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:54 UTC 版)
沖縄復帰後に開催された沖縄国際海洋博覧会に際して、皇太子および同妃が沖縄県を訪問し、献花のために糸満市にあるひめゆりの塔を訪れることが伝えられた。これは皇族による第二次世界大戦後初めての沖縄訪問だった。戦後まもなく全国各地を回った「戦後巡幸」の際、昭和天皇は「戦争を防止出来ず、国民をこの災禍に陥らしめたのはまことに申し訳ない。この際、位を退くことも1つの責任の果たし方だろうが、私は親しい者を失った人、困っている人の所へ行って慰めてやり、働く人を励ましてやって、1日も早く日本を再興したい。そうすることが新憲法の精神に従った国民と皇室との関係を確立できるのではあるまいか」と、その志を側近に述べている。 「沖縄人自身による沖縄解放」を掲げていた沖縄解放同盟準備会は、1975年初頭には「流血も辞さないたたかいで皇太子上陸を阻止する」と宣言し、「十五年戦争における大日本帝国による侵略・植民地主義弾劾」「沖縄戦における日本軍による住民虐殺弾劾」及び「(その最高責任者である)戦争犯罪人・ヒロヒトおよび、その代理人である皇太子を糾弾する」として、1か月間の「皇太子上陸阻止闘争」を展開することを決定した。沖解同(準)は「前段闘争」として、6月18日に摩文仁の丘の日本軍慰霊塔に「日本軍の残虐行為を許さないぞ」、「皇太子沖縄上陸決死阻止」、「大和人は沖縄から出て行け」、「皇太子帰れ」などとペンキで落書きをした。 沖解同(準)は、最終的に7月10日に「『ひめゆりの壕』に潜伏し皇太子を待ち受け火炎瓶と爆竹を投擲する」という方針を決定し、同派メンバーの知念功と西田戦旗派のメンバーの2人が、「ひめゆりの壕」に11日に潜入した。知念は、沖縄史ととりわけ沖縄戦の記録を読み漁ったあとに、壕に潜入したという。知念は後に、「この『闘争』は、皇太子および同妃の殺傷が目的ではなく、皇太子及び皇族を『裁判闘争』に引き摺り出して『天皇制の戦争責任』を追及することが最終目的だった」と主張している。 屋良朝苗沖縄県知事の意向を受けた沖縄県労働組合協議会(県労協)は、幹部三役のみの会議によって「海洋博反対」、「皇太子訪沖反対」については取り組まないことを決定するが、在日米軍基地労働者で構成する全軍労(のちの全駐労)や自治労沖縄などの労働組合によって、海洋博会場付近および那覇市内、糸満市など沖縄南部などでの沖縄各地でのデモや、様々な業種での時限ストライキや抗議職場集会が実行され、延べ数万人が「皇太子訪沖反対」の意思表示を行なった。
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