治世末期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:11 UTC 版)
バビロニアの再征服の後、サルゴン2世はバビロンの市民からバビロン王(英語版)に推戴され、続く3年間、バビロンのメロダク・バルアダン2世の宮殿に滞在し、バーレーンやキュプロスのようなアッシリア帝国の中心部から遠く隔たった国々の支配者から拝礼と貢納を受けた。前707年、いくつかのキュプロスの王国がアッシリアの支援を受けたアッシリアの属国ティロスによって打ち破られた。この遠征はキュプロス島にアッシリアの支配を確立することには繋がらなかったが、同盟国を助けるためアッシリアは歴史上初めてキュプロスの詳細な知識を獲得した。アッシリア人はキュプロスをアドナナ(Adonana)と呼んだ。遠征が終了した後、キュプロス人は恐らくアッシリアの宮廷から派遣された石工の助けを得て、サルゴンの石碑(英語版)を作った。この石碑はこの島に対する恒久的な支配を主張する目的ではなく、アッシリア王の勢力圏の境界を示すイデオロギー的な目印として機能することを意図したものである。この石碑はキュプロスが「既知の世界(アッシリア人は今やこの島について十分な知識を得たため)」に組み込まれたことを示すものであり、サルゴン2世の姿と言葉が刻まれていたことで、サルゴン2世の代理として、彼の存在を示すものとなった。アッシリア人がキュプロス島を自ら征服したいと望んだとしても、実施不可能であったであろう。アッシリアには海軍が完全に欠如していた。 サルゴン2世はバビロンの新年祭(英語版)に参加するとともに、ボルシッパからバビロンへ新しい運河を掘削し、ハマラナ人(Hamaranaeans[訳語疑問点])と呼ばれる人々を打ち破った。彼らはシッパル市近傍で隊商を襲っていた。サルゴン2世がバビロンに居を構えていた間、センナケリブがカルフで摂政を担い続け、前706年にサルゴンがアッシリアの中核地帯に帰還するとともに宮廷はドゥル・シャルキンに移転した。この都市の建設作業は未だ完了していなかったが、サルゴン2世は自身の栄誉として建設を夢見たこの首都をようやく楽しむことができた。だが、それは長くは続かなかった。 前705年、サルゴン2世は反乱を起こしたタバル地方を再びアッシリアの属州へと戻すべくタバルに戻った。成功裡に終わったバビロニアへの遠征の時のように、サルゴン2世はセンナケリブをアッシリアの中核地帯を担当させるために残し、自らは軍を率いてメソポタミアを経由してアナトリアに入った。サルゴン2世は明らかにタバルのような小国が持つ真の脅威を認識していなかった。タバルはこの頃、キンメリア人との同盟によって強化されていた。キンメリア人は後に戻って来てアッシリアにとって頭痛の種となる。サルゴン2世は自ら敵を攻撃したが、戦闘の中で命を落とし、アッシリア軍は大きな衝撃を受けた。サルゴン2世の遺体は敵の手に落ち、アッシリア兵はこれを回収することができなかった。
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