メルエンプタハとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 政治家 > 統治者・君主 > ファラオ > メルエンプタハの意味・解説 

メルエンプタハ

名前 Merenptah

メルエンプタハ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/04 14:04 UTC 版)

メルエンプタハ
Merenptah
Merneptah
古代エジプト ファラオ
統治期間 紀元前1212年 - 紀元前1202年第19王朝
前王 ラムセス2世
次王 アメンメセス
配偶者 イシスネフェルト2世
タカト(?)
ビンタアナト2世(?)
子息 セティ・メルエンプタハ
アメンメセス
ラムセス2世
イシス・ネフェルト
埋葬地 KV8
テンプレートを表示

メルエンプタハ(Merenptah / Merneptah、在位:紀元前1212年 - 紀元前1202年)は、古代エジプト第19王朝第4代目のファラオラムセス2世の第13王子。メルエンプタハは誕生名であり、即位名はバエンラー・メリネチェル(「ラーの魂、神々に愛されしもの」)。

生涯

メルエンプタハが埋葬されていた棺(KV8)。

ラムセス2世の13王子であり、イシスネフェルト1世王妃の間に生まれた4番目の子であった。 異母兄第1王子アメンヘルケペシュエフ、同母兄の第2王子ラムセス、第4王子カエムワセトの死後、四人目の後継者に指名された。 このときすでに40歳を超えていたが、ラムセス2世はその後さらに20年近く在位したため即位したのは実に60歳を超えてからのことであった。 医学の未発達なこの時代としては驚くべき高齢での即位と言える。

王妃は数人確認されている。正妃は姉妹か姪であろうイシスネフェルト2世であり、息子は彼の名を継いだメルエンプタハとセティ2世、娘にはセティ2世の正妃であり、サプタハ王の後には自身が王位についたタウセルトがいる。 タカト英語版との間にはアメンメセスをもうけた。

治績

メルエンプタハ碑文

首都をペル・ラムセスからメンフィスへ戻し、プタハ神殿の隣に王宮を建設した。この宮殿は、1915年にペンシルベニア大学考古学人類学博物館C・S・フィッシャー英語版らによって発掘された。

父王ラムセス2世を悩ませたリビア人の侵攻にはメルエンプタハもまた手を焼かされた。 また、人生の大半を軍人として過ごしてきたため政治は不得意であった。 しかし努力と父王から引き継いだ重臣たちの協力で政治的能力を成長させ、治世5年目に、海の民の援けをうけて侵攻してきたリビア人に対しては見事な指導力、危機管理能力を発揮して撃破に成功した(ペルイレルの戦い英語版)。

この遠征の説明は、カルナック神殿の第6塔門の壁に散文で記述されている。

「哀れな堕落したリビアの首長、デドの子メリラー(Meryre, son of Ded)が、彼の弓兵 ―― シェルデン、エクウェシュ、ルッカ、テレシュとともにチェヘヌ(Tehenu)に降りかかり、戦士たち、戦にかかわる男らを選りすぐって集めた。彼は妻たちと、軍営の長らである息子たちを率いて、ペリレの野の西の境にたどりついた」

エジプト考古学博物館の庭に展示されているアスリビス碑文によると、メルエンプタハはこの報せに怒り、廷臣らを集めて檄を飛ばした。その後、彼は夢のなかにプタハ神があらわれて剣をさずけ「これを取り、汝より怖れを祓え」と告げるのを見た。 六時間の戦闘ののち、生き残った「九の弓ら英語版(異民族を指す)」は武器も荷物も妻子も棄てて命からがら逃げだしたとされ、メルエンプタハは、侵入者を撃ち破り、6000人の敵兵を殺し、9000人の捕虜を捕らえたと宣言した。 その数は、割礼を受けていない敵の死者の男性器と、割礼を受けていた者たちの手首を切り取ることで確かめられたが、割礼を受けていたことから、エクウェシュ人はギリシャ系だったのではないかとする考えもある。

同様の事績が、メルエンプタハ碑文英語版あるいはイスラエル碑に叙事詩として記されている。 カナンの反乱を鎮圧したことに触れ、「イスラエルは一掃され……その種はもはや無し」と、イスラエルを徹底的に滅ぼしたとして言及している。これはイスラエルの存在について、土地や都市ではなく、部族あるいは民族として古代エジプト人が記録した最初の例である。[1] イスラエルのテル・ゲゼル遺跡からは、焼き払われた建築物や犠牲者の遺体が地中から大量に発掘され、この記述を裏付けている。[2]

メルエンプタハのミイラ

彼のミイラはKV8に当初埋葬されたが、1898年アメンホテプ2世が埋葬されているKV35ヴィクトル・ロレ英語版により発見された。

ミイラの保存状態はさほど悪くなく、盗掘によって腕に損傷があっただけで他のファラオと比較してもかなり状態の良いミイラであった。 身長は171.4センチで父であるラムセス2世と同様、死亡時はとても高齢であったため、関節炎、虫歯や歯周病、動脈硬化など様々な病気で苦しんでいた可能性が指摘された。

エジプト考古学博物館に所蔵されていたが、2021年、「ファラオの黄金パレード英語版」で、他の17人の王と4人の王妃とともにエジプト国立文明博物館英語版に移された。[3]

脚注

関連項目

先代
ラムセス2世
古代エジプト王

前1212年 - 前1202年
次代
アメンメセス

メルエンプタハ(Merneptah)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 16:45 UTC 版)

ラムセス2世」の記事における「メルエンプタハ(Merneptah)」の解説

第十三王子。 19王朝四代目ファラオラムセス2世イシスネフェルト1世息子40年に「軍隊監督者(Overseer of the Army)」となって、兄ラムセス死後50年に「司令官(Generalissimo)」の地位引き継ぎ、兄カエムワセト死後55年後継者指名された。このときすでに40歳超えていたが、ラムセス2世その後さらに20年近く在位したため即位したのは実に60歳超えてからのことであったラムセス2世治世末期に父と国を共同治めた可能性がある。

※この「メルエンプタハ(Merneptah)」の解説は、「ラムセス2世」の解説の一部です。
「メルエンプタハ(Merneptah)」を含む「ラムセス2世」の記事については、「ラムセス2世」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「メルエンプタハ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「メルエンプタハ」の関連用語

メルエンプタハのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



メルエンプタハのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのメルエンプタハ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのラムセス2世 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS