第19王朝
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「カルナック神殿複合体の歴史」の記事における「第19王朝」の解説
列柱室の建設は第18王朝のうちに始まったとも考えられるが、ほとんどの建造物はセティ1世(紀元前1294-1279年頃)とラムセス2世(紀元前1279-1213年頃)のもとで着手された。メルエンプタハ(紀元前1213-1203年頃)は、ルクソール神殿への行進ルートの始まるカシェット(カシェ、「隠し場」)の中庭の壁に、海の民に対する自身の勝利を記念した。この大きな碑文(英: Great Inscription、現在はその内容のおよそ3分の1を失った)は、王の行軍および戦利品や捕虜をつれた最後の帰還を示している。この碑文は散文として刻まれており、大部分は別の「勝利の碑」(英: Victory Stela)である、より有名なイスラエル碑(英語版)の転記であり、その詩として刻まれた石碑は西岸のメルエンプタハ葬祭殿の第1中庭で1896年に発見された。メルエンプタハの息子セティ2世(紀元前1200-1194年頃)は、第2塔門の前に2本の小さなオベリスクと、同領域の参道の北に3部分からなる聖舟休息所を加えた。この祠堂は砂岩で築かれ、 ムトとコンスのものを側面とするアメンの礼拝室があった。 この王朝末期の支配者たちは、わずかしか神殿複合体に付け加えなかった。
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第19王朝
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ホルエムヘブは子無くして死去するが、自身の将軍パラメセスを後継者に指名した。彼も老年であったため在位2~3年で死去するが、王位は子供のセティ1世に引き継がれ、ツタンカーメン以降途切れていた血統による王位継承を果たす。
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