世襲王家の復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:57 UTC 版)
「エジプト第19王朝」の記事における「世襲王家の復活」の解説
第19王朝の初代ファラオラムセス1世(前1293年 - 前1291年)は、下エジプト(ナイル川三角州地帯)東部出身の軍人で、第18王朝末期頃には宰相にまで昇り詰めていた。第18王朝末期には王位継承が混乱しており、最後の王ホルエムヘブは妻を介してわずかに王族と血縁を繋いでいるに過ぎなかった。彼には嗣子がいなかったため、宰相であり親しい友人でもあったラムセスがホルエムヘブの後継者に指名されたのであった。こうしてホルエムヘブが死去するとラムセス1世が大過なく王位を継承し、第19王朝が始まった。 ラムセス1世は即位した時既に老齢であり治世は短かったため、彼について残されている記録はあまり無い。ラムセス1世の死後、息子のセティ1世(前1291年 - 前1278年)が王位を継承した。エジプトにおいて久方ぶりに父子による王位の世襲が行われたのである。セティ1世は父親であるラムセス1世と似通った経歴 ―軍人として活躍し宰相へと登る― を持っていた人物であり、それに相応しくシリア・パレスチナ方面への遠征に熱心であった。とりわけ第18王朝のアメンヘテプ4世(アクエンアテン)時代以来の混乱で失われた北シリアに対する支配権回復が目指された。当時北シリアにはヒッタイトの勢力が伸張していたが、カルナック神殿に残された浮き彫りなどから、彼はヒッタイトに勝利して北シリア方面の支配を回復したらしいことがわかる。しかしこの成功は一時的なもので、ヒッタイトの反撃や現地人の反乱のために結局エジプトは北シリアから撤退した。西方のリビュア、南方のヌビアに対する遠征も記録に残されており、セティ1世の時代が長年の政治混乱から脱したエジプトが再び対外膨張を目指した時代であったことがわかる。 セティ1世の時代はまた大規模建築が隆盛したことでも知られる。とりわけテーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール)に残されたカルナック神殿の大列柱室や、アビュドスのオシレイオンが有名である。また彼が領内に建設した神殿の数々が、アメン神のみならずプタハ神やオシリス神、ラー・ホルアクティ神、そしてイシス神などのための物を広範に含んでいることは、第18王朝時代に強大な勢力を誇ったアメン神官団の勢力拡張を抑えるという政策が第19王朝においても継続されていたことを示唆する。
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