大列柱室とは? わかりやすく解説

大列柱室

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 19:50 UTC 版)

デンデラ神殿複合体」の記事における「大列柱室」の解説

内部18本のハトホルが立つ大列柱室は、1世紀ティベリウス14-37年)により増築されたものである。大列柱室への入口正面は、下部が壁として造られ円柱の上四面ハトホルの顔が彫られ柱間壁により形成されている。

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大列柱室

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 06:05 UTC 版)

カルナック神殿」の記事における「大列柱室」の解説

大列柱室(多室)は、幅102メートル奥行き53メートルにおよび、面積5406平方メートル0.5ヘクタール余り)となる領域に、16列に配置され134本の巨大な円柱がある。これらの円柱のうち122本は高さ約12メートル直径2メートル未開花式パピルスであり、また、中央の2列に並ぶ12本は、他の円柱より大きい開花パピルスで、高さが約21メートル直径3.6メートルで、外周10メートル余り(約33フィート)、柱頭最大円周15メートルとなる。134本のパピルス列柱は、天地創造大地原初の丘)に浮かんだ葦(パピルス)の湿原表している。 大列柱室は、高い中央上方の縦格子を持つ高窓より採光されていた。カルナックアラビア語「窓」の意であり、この多室の窓の特徴から神殿周辺の名となったとも考えられる。 この多建築は、第18王朝アメンホテプ3世紀元前1390-1352年頃)の着工の後、第19王朝セティ1世によって装飾始められラムセス2世により完成した列柱室の北側隆起した浮き彫り装飾されており、セティ1世取り組んだものであったセティ1世死去する直前列柱室の南側装飾始めたが、この部分はほとんど息子であるラムセス2世によって完成したラムセス2世装飾当初浮き彫りであったがすぐに沈み彫りへと変更しその後列柱室の南側にあるラムセス2世浮き彫り装飾は、そこにあるセティ1世わずかなレリーフ加わり沈み彫り切り替わったラムセス2世隆起した浮き彫りとして北翼棟にセティ1世レリーフ残したラムセス2世はまた列柱室の他の場所において父のレリーフのほとんどを尊重しながらも、列柱室の東西主軸沿いおよび南北列柱通路北側部分沿ってセティ1世の名をラムセス2世自らのものに変更した外壁には、北にセティ1世、南にラムセス2世のシリア・パレスチナにおける戦い場面描かれている。このほかラムセス2世南壁隣接してラムセス2世治世21年ヒッタイト調印した平和条約の文(世界最古平和条約文書)を含む壁面がある。

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