世襲と皇位継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 16:00 UTC 版)
皇帝の称号は世襲のもので、各王朝とも伝統的に父から息子に継承された。しかし崩御した皇帝に男子がいない場合に、弟が帝位を継承した例もある。多くの王朝の慣例では、皇后から生まれた長男(嫡長子)が帝位を継承することになっていた。皇后に子が生まれない場合は、皇帝は多くの側室の中から子をもうけた(皇帝の子は全て生母に関係なく皇后の子とされた)。王朝によっては、嫡長子の継承に異議が唱えられ、多くの皇帝に多数の子孫がいたため、対立する皇子の間で継承を巡る争いが起きた。死後の紛争を避ける目的で、皇帝はしばしば存命中に太子を指名した。しかしそのように明示的に指名を行った場合でさえ、しばしば嫉妬や不信から、太子が皇帝に対し、あるいは兄弟間で謀略が巡らされ、指名が蔑ろにされた。たとえば雍正帝など、皇帝によっては太子の地位を廃止して、継承者を指名した紙を箱に入れて封印し、皇帝の死後まで開封・公表させないこともあった(太子密建)。 例えば日本の天皇の場合と違い、中国の政治理論では、支配皇室の変更が許された。これは天命の概念に基づくもので、その背景にある理念は、中国の皇帝は「天の子」としてふるまい世界の全人民を支配する信託を有するが、ただしそれは皇帝が人民によく奉仕する場合に限られる、とするものであった。洪水や飢饉のような自然災害その他の理由で統治の資質に疑問を持たれた場合、謀反は正当化された。この重要な概念が、王朝輪廻や王朝の変更に正当性を与えた。 この理論は、漢や明王朝のような農民による新たな王朝建設や、モンゴル民族の元や満州族の清のような征服王朝の建国を可能とした。「天からの信託」を有するかどうかは、道徳的廉直さと慈悲を備えた統率力によって判断された。中国史における合法的な女帝は唐(または自身の建てた武周)の武則天だけである。しかし多くの女性が、通常皇太后として事実上の指導者となった。その著名な例には、同治帝(1861年-1874年)の母として、ついで光緒帝(1874年-1908年)の養母(血縁上は伯母)として、清を47年間(1861年-1908年)支配した西太后や、漢の呂雉がいる。
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