皇太后
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皇太后(こうたいごう、英: Empress Dowager)王太后(おうたいごう、英: Queen Dowager)は、先代の皇帝・天皇・国王の皇后であった者、ならびに皇帝・天皇・国王の母親(母后)である者、およびその称号[1]。ただし必ずしもこの定義にあてはまらない事例もある。
- ^ 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)936頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)858頁参照。
- ^ “天皇の退位等に関する皇室典範特例法について”. 首相官邸ホームページ. 内閣広報官. 2019年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年4月30日閲覧。
- ^ “新しい天皇陛下が即位 「令和」始まる”. BBC News Japan (英国放送協会). (2019年4月30日). オリジナルの2019年4月30日時点におけるアーカイブ。 2019年4月30日閲覧。
- ^ a b 「母后」『広辞苑』(第五版、岩波書店)
- ^ a b 母后(読み)ハハキサキ デジタル大辞泉
- 1 皇太后とは
- 2 皇太后の概要
- 3 ベトナムの皇太后
- 4 参照文献
皇太后
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「マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)」の記事における「皇太后」の解説
アレクサンドル3世は1894年11月1日、リヴァディアにおいて49歳で死去した。マリヤのこの日の日記には次のようにある、「私は完全に打ちのめされ絶望した、それでもサーシャの顔に浮かぶ幸福な笑顔と平穏さを見ているうちに、自然と力が湧いてきた」。2日後、姉夫婦ウェールズ公夫妻がリヴァディアに到着した。ウェールズ公が葬儀の準備を手伝う一方、姉アレクサンドラは悲嘆にくれるマリヤを慰め、一緒に祈ったりベッド脇で共に眠ったりした。葬儀から1週間後に当たったマリヤの誕生日(11月26日)、新皇帝ニコライとアリックス改め新皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの婚礼が行われ、宮廷の服喪もいくぶん和らげられた。夫の死から日が経つにつれ、マリヤは将来に対する楽観的な見方を取り戻し、「万事うまくいく」としばしば口にするようになった。マリヤはアニチコフ宮殿とガッチナ宮殿を行き来する生活を始めた。1896年5月、マリヤはニコライ2世夫妻のモスクワでの戴冠式に列車で向かった。ニコライ皇帝はこのとき皇帝専用車両を新造したので、アレクサンドル3世が使用していた臨時御用車両(ボルキ鉄道事故後も無事だった車両に一般客車を数両くっつけたもの)は皇太后の専用車とされた。 長男ニコライの治世初期、マリヤはしばしば新帝の政治上の助言者の役割を果たした。ニコライはまだ国政の舵取りに自信がなく母の人脈と政治的見識に頼りがちで、政治決定の前には大臣に対して「母の意見を聞いて来る」と発言することが多く、逆に大臣たちも「お母様にお聞きなさい」と勧めた。ニコライが当初父の任命した閣僚を留任させたのは母皇太后の意見を聞いてのことだったと言われる。マリヤは自分の息子が精神的に弱く他人の意見に左右されやすいと思っており、それならば自分の影響下に置いた方がましだと考えていた。末娘のオリガは母マリヤの政治的役割を次のように述懐している、「母は以前[国政への関与に]ほとんど興味を示しませんでしたが…今や自分の使命だと感じようなりました。母は魅力的な人柄でしたし、その行動力には目を見張るものがありました。彼女は帝国政府の教育政策に精通していました。また、秘書を政治的な業務に縛り付けてへとへとにさせましたが、自分自身が身を削ることはありませんでした。委員会に出席して退屈しても、その素振りを隠す才能を持っていました。彼女の振る舞い、就中、彼女の指揮能力には皆がひれ伏しました」。皇太后となったマリヤは、ロシアに革命の嵐を起こさないようにするには改革が不可避だと確信した。廷臣パーヴェル・ベンケンドルフ(ロシア語版)伯爵によれば、内務大臣の任命人事に関して、マリヤが息子の皇帝に保守派から人選しないよう求める一幕があったという。「お一方[皇太后]はもうお一方[皇帝]にひざまずかんばかりで、今回の任命を撤回して政治的譲歩の出来そうな誰か別の人物に替えるべきだと主張した。彼女は、もしニコライがこれに同意しないなら、自分はデンマークへ帰るので、一人でこの難局に直面することになる、と言った」。1904年、ニコライがマリヤの推す自由主義改革派のピョートル・スヴャトポルク=ミルスキー公爵を内相に任命すると、マリヤはミルスキーに任命を受けるよう説得した、「貴方は私の息子の意思に従わねばなりませんよ…[内相に]なってくれたら、キスしてあげます」。しかし同年、皇后アレクサンドラが待望の男子アレクセイを産むと、ニコライは国政の相談相手を母から妻に切り替えた。 マリヤの初孫の夫となったフェリックス・ユスポフ公爵は、皇太后はロマノフ家に対して絶大な影響力を持っていたと証言している。セルゲイ・ウィッテは、皇太后が帝国の内政・外政において統率力と外交手腕を発揮することを願っていた。その極めて優れた社交的手腕にもかかわらず、皇太后は義理の娘のアレクサンドラ・フョードロヴナ皇后を手なずけることはできなかった。皇后はマリヤの息子ニコライ2世及びロシア帝国に降りかかった災難の多くの原因を作ったと非難されていた。マリヤは嫁アレクサンドラが国民の好意を得られないこと、4人の娘を立て続けに産んで結婚から10年近くの間世継ぎを産めなかったことに失望していた。西欧の諸王室とは異質な皇太后は皇后よりも上位に置かれるというロシア宮廷の慣習、マリヤの息子に対する独占欲と嫁アレクサンドラへの嫉視、これらが複合的に重なって、姑と嫁の間の対立と緊張関係は深まる一方だった。皇后の女官ゾフィー・フォン・ブクスヘーヴェデンは2人の対立を次のように見ていた、「[2人が]互いを理解し合うようになるには…実際に衝突しなければ根本的に不可能だと思っていた」。マリヤの次女オリガ大公女も、「両者は互いを理解し合おうとしたが失敗した。2人は性格、生活上の作法、装いなど、全てが完全に異質だった」としている。マリヤがダンスの得意な社交の名人で多くの人を惹きつける人柄だったのに対し、アレクサンドラは知性に優れたモデルのような美人で、非常に内気だったのでロシア国民に近づこうとしなかった。 1900年代になると、マリヤは外国で過ごすことが多くなった。1906年に父クリスチャン9世が死去した直後、マリヤは姉のイギリス王妃アレクサンドラと共同で、コペンハーゲン郊外のヴィズウーア城(デンマーク語版)を購入した。翌1907年、英露協商の成立でロシアとイギリスの関係が劇的に良好になると、マリヤは1873年以来初めて、姉夫婦の英国王エドワード7世夫妻の賓客としてイギリスに迎えられた。1908年の年明けにも英国を訪れ、同年夏は英国王夫妻をロシアに迎えた。1910年、マリヤは義兄エドワード7世の葬儀に参列するため再度イギリスを訪問した。マリヤはこの時、ロシア宮廷の慣習を例に出して、王太后となった姉アレクサンドラのイギリス宮廷における席次を、アレクサンドラの嫁メアリー王妃より上位に置くべしと主張したが、容れられなかった。 マリヤ・フョードロヴナは、フィンランドのキュミ川(英語版)の急流沿いに建てられたランギンコスキ(英語版)山荘の所有者でもあり、フィンランド人に好意的だったことでも知られている。フィンランドのロシア化(英語版)政策が最初に進められた時代、マリヤは息子ニコライ2世にフィンランド大公国の自治権停止宣言を思い止まるよう訴え、不人気なフィンランド総督ニコライ・ボブリコフを解任するよう求めた。2度目のロシア化政策の時代、マリヤは第一次世界大戦の開戦に際して滞在先のフィンランドからペテルブルクに帰還した際にも、当時のフィンランド総督フランツ・アルベルト・セイン(英語版)が演奏を禁止したフィンランド軍歌『ポリ連隊行進曲(英語版)』及びフィンランド国歌『我等の地』を、出迎えのオーケストラに敢えて演奏させ、ニコライ2世のフィンランド人抑圧政策に反対であることを表明した。 1899年、肺結核を患っていた次男ゲオルギーが療養先のカフカースで亡くなった。葬儀のあいだ、皇太后は平静を保っていたが、葬儀が終わるや否や棺の上に載せられていた息子の帽子を掴んで教会堂を飛び出し、馬車に乗り込んで激しく泣きじゃくった。2年後、マリヤは求婚者が一向に現れない末娘のオリガに、ピョートル・アレクサンドロヴィチ・オリデンブルクスキー公爵との不幸極まりない縁組をさせた。熱心な正教信者のニコライ2世は妹の求める結婚の解消を長く許可しなかったが、第一次大戦中の1916年にようやく折れた。オリガがニコライ・クリコフスキー(英語版)との身分違いの再婚を望むと、マリヤはニコライ2世と一緒になって思いとどまるよう説得したが、さすがに後ろめたくもあって強く出ることはしなかった。1916年11月、マリヤは娘オリガの2度目の結婚式に出席した数少ない客の1人となった。1912年にも、マリヤはニコライ2世と一緒になって、末息子ミハイルの愛人との秘密結婚の発覚に激怒した。 マリヤ・フョードロヴナは皇帝夫妻に近づいたグリゴリー・ラスプーチンを「危険な詐欺師」と呼んで嫌い、ラスプーチンの言動が皇帝の威信を傷つけ始めると、皇帝夫妻にラスプーチンを側近から除くよう忠告した。皇帝がこれに沈黙したままなのに対し、皇后が「それはできない」と返答すると、マリヤは皇后こそが国の本当の統治者になっていると見なし、同時に皇后にはそのような立場に立つ能力が欠けていることを嘆いた。「私の愚かな嫁は王朝と自分自身を破滅へと導いていることに気付いていない。彼女は本気であんな山師の聖性とやらを信じ込み、私たちは迫りくる破局に対して無力です」。1914年2月、皇帝がアレクサンドラの説得を聞き入れて首相ウラジーミル・ココフツォフを解任すると、マリヤは「そのようなことをしては皇后がロシアの真の統治者だと見なされても文句は言えませんよ」と息子ニコライ皇帝を非難した。そしてココフツォフを引見して言った、「嫁は私を憎んでいます。私が彼女の権力に嫉妬しているのだと考えているんです。彼女は私の願いが息子の幸福だということに気付いていない。破局が近づいているのに皇帝は阿諛追従しか耳に入れようとしない…どうか、ご自分の考えや把握している一切を皇帝に打ち明けてほしいのよ…それがもう手遅れだとしても」。
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「皇太后」の例文・使い方・用例・文例
- 皇太后
- 皇太后.
- 統治している王の母である皇太后
- 上皇,皇太后,皇后,親王などの住む所
- 上皇,皇太后,皇后,親王など
- (皇室で)太皇太后,皇太后,皇后の総称
- 幼帝に代わって皇太后などが政治をとること
- 太皇太后,皇太后,皇后の総称
- 天皇,皇后,皇太后,太皇太后への尊称
- 天皇,太皇太后,皇太后がなくなった時,皇室と国民が喪に服する期間
- 皇太后の御殿
- 皇太后という身分
- 皇太后という身分にある人
- (皇室で)太皇太后と皇太后と皇后
- 国葬より一段階下で,故皇太后や故ダイアナ妃の葬儀と同等のものだった。
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