皇太后とは? わかりやすく解説

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こう‐たいごう〔クワウ‐〕【皇太后】

読み方:こうたいごう

天皇皇后また、天皇皇后で、現天皇生母皇太后宮おおきさき


皇太后

読み方:コウタイゴウ(koutaigou)

天皇の母で后位のぼった者の称。

別名 長楽宮おおきさき


皇太后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/03 04:47 UTC 版)

皇太后(こうたいごう、: Empress Dowager王太后(おうたいごう、: Queen Dowager)は、先代の皇帝天皇国王皇后であった者、ならびに皇帝・天皇・国王の母親(母后)である者、およびその称号[1]。ただし必ずしもこの定義にあてはまらない事例もある。

中国の皇太后

太后という単語自体は、君主の母を指して用いられた言葉である。称号の初出は、昭襄王は即位したあと、嫡母の恵文后と区別するため生母の羋八子(後世では宣太后と呼んでいる)に太后の号を授けた事例である。の時代から、在位中の皇帝の嫡母は皇太后となった。嫡母が既に亡くなった場合だけ皇帝の生母は皇太后の称号を授けられた(例:漢の文帝の生母薄姫)。の時代では、在位中の皇帝の生母と嫡母を並び尊崇して「皇太后(前者を聖母皇太后、後者を母后皇太后)」と呼ぶ。互いに優劣はないが、儀式においては母后皇太后の方が聖母皇太后より格上である。敬称は殿下

皇太后の位は、親世代という立場に立った皇帝の未亡人に与えられる。したがって、以下が皇太后の位に登ることはなかった場合である。

  • 先代の皇帝は退位した場合には、太上皇帝となった。対応として太上皇帝の嫡妻は太上皇后と称され、皇太后と区別して用いられた。
  • 先代の皇帝は在位中の皇帝と同一世代(兄弟・従兄弟)の場合には、先代の皇帝の未亡人は皇太后ではなく「○○皇后」と呼んだ。例えば、漢の文帝が皇帝に即位後、兄孝恵帝皇后張氏は夫の諡を重ねて「孝恵皇后」と呼ばれ、「孝恵帝の皇后」と読む。また嘉靖帝の即位後、従兄正徳帝皇后夏氏は「荘粛皇后」の尊号を贈られた。

原則では、皇太后が追号として用いられたことはなかった。皇太后を追号されたのは、武帝の妃で昭帝の母趙婕妤ただ一人である。それは、趙婕妤が武帝に断罪されて処刑され、武帝の皇后としてふさわしくないと見なされた。したがって、代わりに皇后ではなく皇太后を追号された。

最初の皇太后は前漢劉邦の皇后の呂雉である(『史記』によれば最初の皇帝始皇帝の后妃は殉死させられたために皇太后に当たるものはいない)。最後の皇太后は清朝光緒帝の皇后隆裕皇太后である。

日本の皇太后

日本
皇太后
皇太后旗
在位中の皇太后
空位
2000年平成12年)6月16日より
詳細
敬称 陛下
初代 ヒメタタライスズヒメ
最終代 香淳皇后
2021年(令和3年)現在
宮殿 大宮御所東京都千代田区
ウェブサイト 宮内庁
テンプレートを表示
称号:皇太后
敬称 皇太后陛下
Her Majesty the Empress Dowager

日本においては、太皇太后、皇后とならび三后(三宮)のひとつで、太后(たいこう)とも略される。長楽宮(ちょうらくきゅう)を別称とする。

日本では以下のものが皇太后と称された。

  1. 天皇の母で皇后であった者
  2. 天皇の生母(皇后を経ていない)
  3. 中宮から皇太后(他の皇后立后のため)
  4. 天皇の生母への追贈(死別)
  5. 先代の嫡妻(先代の生死に関わらず)
  6. 先代の皇后(同上)

神話上は初代天皇である神武天皇の皇后であった媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)が、息子綏靖天皇即位と同日に皇太后となったのが初とされ、律令では天皇の母で皇后であった者に与えられるとされた。しかし、文武天皇生母の藤原宮子を太皇太后、光仁天皇生母の紀橡姫贈皇太后とするなど、皇后を経ていない国母が皇太后・太皇太后と宣下されるようにもなり、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が、嵯峨が弟淳和天皇に譲位するのと同時に皇太后となったり(太上天皇の配偶者。天皇の母ではない)、後冷泉天皇中宮章子内親王藤原歓子皇后立后により皇太后となる等、実態は複雑化した。皇太后には世話をする部署として皇太后宮職が置かれた。

また天皇が即位前に生母が死別していた場合、即位の際に皇太后を追贈する事もあった。例として白河天皇の母藤原茂子は、父後三条天皇の皇太子時代は御息所に留まって早世するが、白河天皇は即位すると亡き母に皇太后を追贈した。そして白河天皇の寵妃の中宮藤原賢子も息子の即位前に早世するが、子の堀河天皇が即位した際に皇太后を追贈された。

江戸時代初期以降は先代の嫡妻をもって皇太后とするのが慣例になり、また中期以降、太皇太后の尊称であった「大宮」を別称とするようになり、皇太后の御所を大宮御所と称した。

明治維新以後は、皇太后は先帝の皇后または天皇の母の称号となり、皇室典範昭和22年1月16日法律第3号)により皇族内廷皇族)に含まれ(第5条)、敬称は「陛下」と定められた(第23条)。

また、大宝律令以来三后の班位(身位)は太皇太后、皇太后、皇后の順と定められていたが、1910年明治43年)制定の皇族身位令(明治43年3月3日皇室令第2号)第1条により、皇后、太皇太后、皇太后の順と定められ、皇后を上位と改めた。

近代以前に皇太后が追号として用いられたことはなかったが、明治以降は孝明天皇女御准三宮)で明治天皇の嫡母(形式上の母。生母ではない。)の英照皇太后明治天皇皇后であった昭憲皇太后に贈られている。英照皇太后は、明治天皇即位に伴い、皇后を経ずして皇太后に冊立された。昭憲皇太后については、本来皇后が追号であるべきとして、明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮1920年大正9年)に宮内省に、1963年(昭和38年)・1967年(昭和42年)には宮内庁に追号を「昭憲皇后」に変更するよう申し入れたが、認められなかった(昭憲皇太后#追号についても参照)。次代の大正天皇の后貞明皇后以降は、「皇太后」として崩御しても生前の最高位である「皇后」の位で追号されている。

なお、2017年平成29年)6月16日に公布され[2]2019年(平成31年)4月30日に施行された[3]天皇の退位等に関する皇室典範特例法では、第3条で「前条の規定により退位した天皇は、上皇とする。」、4条で「上皇の后は、上皇后とする。」とそれぞれ規定している。すなわち、歴史上、太上天皇の配偶者にも用いられてきた「皇太后」称号を使用せず、史上初の称号である「上皇后(じょうこうごう)」が新たに定められた。

日本の皇太后一覧

和暦 西暦 皇后 太皇太后
媛蹈鞴五十鈴媛命 綏靖元年1月8日
五十鈴依媛命 安寧元年10月11日
渟名底仲媛命 懿徳元年9月
天豊津媛命 孝昭元年4月5日
世襲足媛 孝安元年8月1日
押媛命 孝霊元年1月12日
細媛命 孝元元年1月14日
欝色謎命 開化元年1月4日
伊香色謎命 崇神元年1月13日
御間城姫命 垂仁元年11月2日
八坂入媛命 成務2年11月10日
両道入姫命 仲哀元年9月1日
息長足姫尊 神功元年10月2日
仲姫命 仁徳元年1月3日
忍坂大中姫命 允恭42年12月14日
手白香皇女 宣化4年12月5日
石姫皇女 敏達元年4月3日 572/4/30
藤原安宿媛 天平勝宝元年8月1日 749/8/19
高野新笠 延暦9年1月14日以降 贈 790/2/2- 贈 ○贈
藤原乙牟漏 大同元年5月19日 贈 806/6/9 贈
藤原旅子 弘仁14年5月1日 贈 823/6/12 贈
橘嘉智子 弘仁14年4月23日 823/6/5
正子内親王 天長10年3月2日 833/3/26
藤原順子 仁寿4年4月26日 854/5/26
藤原明子 貞観6年1月7日 864/2/17
藤原高子 元慶6年1月7日 882/1/29
藤原沢子 元慶8年 贈 884 贈
藤原胤子 寛平9年7月19日 贈 897/8/20 贈
班子女王 寛平9年7月26日 897/8/27
藤原穏子 承平元年11月28日 932/1/8
藤原安子 康保4年11月29日 贈 968/1/1 贈 ○贈
昌子内親王 天禄4年7月1日 973/11/8
藤原懐子 永観2年12月17日 贈 985/1/10 贈
藤原詮子 寛和2年7月5日 986/8/12
藤原遵子 長保2年2月25日 1000/4/2
藤原超子 寛弘8年12月27日 贈 1012/1/23 贈
藤原彰子 寛弘9年2月14日 1012/3/9
藤原妍子 寛仁2年10月16日 1018/11/26
藤原嬉子 寛徳2年8月11日 贈 1045/11/27 贈
禎子内親王 永承6年2月13日 1051/3/27
章子内親王 治暦4年4月17日 1068/5/20
藤原寛子 延久元年7月3日 1069/7/23
藤原茂子 延久5年5月6日 贈 1073/6/14 贈
藤原歓子 延久6年6月20日 1074/7/16
藤原賢子 寛治元年12月28日 贈 1088/1/24 贈
藤原聖子 永治元年12月27日 1142/1/25
藤原多子 保元元年10月27日 1156/12/11
藤原呈子 保元3年2月3日 1158/3/5
源懿子 保元3年12月29日 贈 1159/1/20 贈
平滋子 仁安3年3月20日 1168/4/29
藤原忻子 承安2年2月10日 1172/3/6
源通子 仁治3年7月11日 贈 1242/8/8 贈
西園寺禧子 元弘3年7月11日 1333/8/21
阿野廉子 延元4年(暦応2年)8月15日以降 1339/9/18-
近衛勝子 正平25年3月 1370/3
庭田朝子 永正元年7月17日 贈 1504/8/26 贈
万里小路栄子 弘治3年10月27日以降 贈 1557/11/17- 贈
近衛尚子 享保20年3月21日以降 贈 1735/4/13- 贈
二条舎子 延享4年5月27日 1747/7/4
一条富子 明和8年5月9日 1771/6/21
近衛維子 安永10年3月15日 1781/4/8
欣子内親王 文政3年3月14日 1820/4/26
鷹司祺子 弘化4年3月14日 1847/4/28
英照皇太后 慶応4年3月18日 1868/4/10
昭憲皇太后 明治45年7月30日 1912/7/30
貞明皇后 大正15年12月25日 1926/12/25
香淳皇后 昭和64年1月7日 1989/1/7
(上皇后美智子) (令和元年5月1日) (2019/5/1) (○)

三后表

朝鮮の皇太后

朝鮮王朝までの君主は、天皇や皇帝ではなく国王だったため、皇太后ではなく大妃という。

1895年大韓帝国が成立したときには朝鮮王高宗が大韓皇帝となったが正室はいなかった。次の純宗の継室の純貞孝皇后が夫君の死後、1966年まで生きたため最初で最後の皇太后である。

ベトナムの皇太后

ベトナムでは丁朝のときに君主号を皇帝としたためその正室は皇后となり、皇太后も現れた。最後の皇太后は保大帝の后、泰芳皇后英語版ことモニク・マリ・ユジェニー・ボドー(1946年-2021年)である。

ヨーロッパにおける「皇太后」「王太后」

訳語として、皇帝未亡人(英語:Empress dowager)に「皇太后」、先代の王の王妃だった者(英語:Queen dowager)に「王太后」(おうたいごう)を用いることがある。また、王国の元首をすべて皇帝と称してきたかつての儀典上の慣例から、王太后に対して「皇太后」の語が用いられる場合も少なくない。ヨーロッパでは一度帯びた位は原則終身保持できるため、1989年に崩御した、オーストリア・ハンガリー帝国の最後の皇帝カール1世の皇后ツィタ(オーストリア・ハンガリー帝国は1918年に滅亡し、カール1世は1922年に崩御)がヨーロッパ最後の「皇太后」である。

現在、「皇后」(英語:Empress)の地位が存在するのは日本のみであるため、1947年までインド皇后(英語:Empress of India)であり、2002年に崩御したエリザベス・ボーズ=ライアンイギリス国王ジョージ6世妃、同女王エリザベス2世生母)が、日本以外における最後の「皇太后」である。

日本では天皇の母である后(きさき)を母后(ヨミは「ぼこう[4]」または「ははきさき[5]」)と呼称するが[4][5]、ヨーロッパにもこれに相当する呼称(英語:Queen mother)がある。

アフリカにおける「皇太后」「王太后」

アフリカ南部にあるエスワティニでは皇太后に類似するものとして、先代王妃・国王の母に与えられるンドロブカティという称号がある。ンドロブカティは祭祀を行うことが権限となっている。

脚注

  1. ^ 新村出広辞苑 第六版』(岩波書店2011年)936頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂2006年)858頁参照。
  2. ^ 天皇の退位等に関する皇室典範特例法について”. 首相官邸ホームページ. 内閣広報官. 2019年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年4月30日閲覧。
  3. ^ “新しい天皇陛下が即位 「令和」始まる”. BBC News Japan (英国放送協会). (2019年4月30日). オリジナルの2019年4月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190430170450/https://www.bbc.com/japanese/48101947 2019年4月30日閲覧。 {{cite news}}: CS1メンテナンス: 先頭の0を省略したymd形式の日付 (カテゴリ)
  4. ^ a b 「母后」『広辞苑』(第五版、岩波書店
  5. ^ a b 母后(読み)ハハキサキ デジタル大辞泉

参照文献

文献資料

  • 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X
  • 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059

外部リンク

関連項目


皇太后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 08:05 UTC 版)

マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)」の記事における「皇太后」の解説

アレクサンドル3世1894年11月1日リヴァディアにおいて49歳死去したマリヤのこの日の日記には次のようにある、「私は完全に打ちのめされ絶望した、それでもサーシャの顔に浮かぶ幸福な笑顔平穏さを見ているうちに、自然と力が湧いてきた」。2日後、姉夫婦ウェールズ公夫妻リヴァディア到着したウェールズ公葬儀準備手伝一方、姉アレクサンドラ悲嘆にくれるマリヤ慰め一緒に祈ったベッド脇で共に眠ったりした。葬儀から1週間後当たったマリヤ誕生日11月26日)、新皇ニコライアリックス改め新皇アレクサンドラ・フョードロヴナ婚礼が行われ、宮廷服喪いくぶん和らげられた。夫の死から日が経つにつれ、マリヤ将来対す楽観的な見方取り戻し、「万事うまくいく」としばしば口にするようになったマリヤアニチコフ宮殿ガッチナ宮殿行き来する生活を始めた1896年5月マリヤニコライ2世夫妻モスクワでの戴冠式列車向かったニコライ皇帝はこのとき皇帝専用車両を新造したので、アレクサンドル3世使用していた臨時御用車両(ボルキ鉄道事故後も無事だった車両一般客車を数両くっつけたもの)は皇太后の専用車とされた。 長男ニコライ治世初期マリヤはしばし新帝政治上の助言者の役割果たしたニコライはまだ国政舵取り自信がなく母の人脈政治的見識頼りがちで、政治決定前に大臣に対して「母の意見聞いて来る」と発言することが多く逆に大臣たちも「お母様お聞きなさい」と勧めたニコライ当初父の任命した閣僚留任させたのは母皇太后の意見聞いてのことだったと言われるマリヤ自分息子精神的に弱く他人意見左右されやすいと思っており、それならば自分影響下に置いた方がましだと考えていた。末娘オリガ母マリヤ政治的役割次のように述懐している、「母は以前国政への関与に]ほとんど興味示しませんでしたが…今や自分使命だと感じようなりました。母は魅力的な人柄でしたし、その行動力には目を見張るものがありました。彼女は帝国政府教育政策精通していましたまた、秘書政治的な業務縛り付けへとへとにさせましたが、自分自身身を削ることはありませんでした委員会出席して退屈しても、その素振りを隠す才能持っていました。彼女の振る舞い就中、彼女の指揮能力には皆がひれ伏しました」。皇太后となったマリヤは、ロシア革命の嵐を起こさないようにするには改革不可避だと確信した廷臣パーヴェル・ベンケンドルフ(ロシア語版伯爵によれば内務大臣任命人事に関してマリヤ息子皇帝保守派から人選ないよう求め一幕があったという。「お一方[皇太后]はもうお一方皇帝]にひざまずんばかりで、今回任命撤回し政治的譲歩出来そう誰か別の人物替えるべきだと主張した。彼女は、もしニコライがこれに同意しないなら、自分デンマーク帰るので、一人でこの難局直面することになる、と言った」。1904年ニコライマリヤ推す自由主義改革派ピョートル・スヴャトポルク=ミルスキー公爵内相任命すると、マリヤはミルスキーに任命を受けるよう説得した、「貴方は私の息子意思に従わねばなりませんよ…[内相に]なってくれたら、キスしてあげます」。しかし同年皇后アレクサンドラ待望男子アレクセイを産むと、ニコライ国政相談相手を母から妻に切り替えたマリヤ初孫の夫となったフェリックス・ユスポフ公爵は、皇太后はロマノフ家に対して絶大な影響力持っていたと証言している。セルゲイ・ウィッテは、皇太后が帝国内政・外政において統率力外交手腕発揮することを願っていた。その極めて優れた社交的手腕にもかかわらず、皇太后は義理の娘のアレクサンドラ・フョードロヴナ皇后手なずけることはできなかった。皇后マリヤ息子ニコライ2世及びロシア帝国降りかかった災難多く原因作った非難されていた。マリヤは嫁アレクサンドラ国民好意得られないこと、4人の娘を立て続け産んで結婚から10年近くの間世継ぎを産めなかったことに失望していた。西欧諸王室とは異質な皇太后は皇后よりも上位置かれるというロシア宮廷慣習マリヤ息子対す独占欲と嫁アレクサンドラへの嫉視、これらが複合的に重なって、姑と嫁の間の対立緊張関係は深まる一方だった。皇后女官ゾフィー・フォン・ブクスヘーヴェデンは2人対立次のように見ていた、「[2人が]互い理解し合うようになるには…実際に衝突しなければ根本的に不可能だ思っていた」。マリヤ次女オリガ大公女も、「両者互い理解し合おうとしたが失敗した2人性格、生活上の作法装いなど、全てが完全に異質だった」としている。マリヤダンス得意な社交名人多くの人を惹きつける人柄だったのに対しアレクサンドラ知性優れたモデルのような美人で、非常に内気だったのでロシア国民に近づこうとしなかった。 1900年代になると、マリヤ外国で過ごすことが多くなった。1906年に父クリスチャン9世が死去した直後マリヤは姉のイギリス王妃アレクサンドラ共同で、コペンハーゲン郊外のヴィズウーア城(デンマーク語版)を購入した。翌1907年英露協商成立ロシアイギリスの関係が劇的に良好になると、マリヤ1873年以来初めて、姉夫婦英国王エドワード7世夫妻賓客としてイギリス迎えられた。1908年年明けにも英国訪れ同年夏は英国王夫妻ロシア迎えた1910年マリヤ義兄エドワード7世葬儀参列するため再度イギリス訪問したマリヤはこの時、ロシア宮廷慣習を例に出して王太后となったアレクサンドライギリス宮廷における席次を、アレクサンドラの嫁メアリー王妃より上位に置くべしと主張したが、容れられなかった。 マリヤ・フョードロヴナは、フィンランドキュミ川(英語版)の急流沿いに建てられたランギンコスキ(英語版山荘所有者でもあり、フィンランド人好意的だったことでも知られている。フィンランドロシア化英語版政策最初に進められ時代マリヤ息子ニコライ2世フィンランド大公国自治権停止宣言思い止まるよう訴え不人気なフィンランド総督ニコライ・ボブリコフ解任するよう求めた2度目ロシア化政策時代マリヤ第一次世界大戦開戦に際して滞在先のフィンランドからペテルブルク帰還した際にも、当時フィンランド総督フランツ・アルベルト・セイン(英語版)が演奏禁止したフィンランド軍歌『ポリ連隊行進曲英語版)』及びフィンランド国歌我等の地』を、出迎えオーケストラ敢えて演奏させ、ニコライ2世フィンランド人抑圧政策反対であることを表明した1899年肺結核患っていた次男ゲオルギー療養先のカフカース亡くなった葬儀のあいだ、皇太后は平静保っていたが、葬儀が終わるや否やの上載せられていた息子帽子掴んで教会堂飛び出し馬車乗り込んで激しく泣きじゃくった。2年後マリヤ求婚者が一向に現れない末娘オリガに、ピョートル・アレクサンドロヴィチ・オリデンブルクスキー公爵との不幸極まりない縁組をさせた。熱心な正教信者ニコライ2世は妹の求め結婚解消長く許可しなかったが、第一次大戦中の1916年にようやく折れたオリガがニコライ・クリコフスキー(英語版)との身分違い再婚を望むと、マリヤニコライ2世一緒になって思いとどまるよう説得したが、さすがに後ろめたくもあって強く出ることはしなかった。1916年11月マリヤは娘オリガ2度目の結婚式に出席した数少ない客の1人となった1912年にも、マリヤニコライ2世一緒になって、末息子ミハイル愛人との秘密結婚発覚激怒した。 マリヤ・フョードロヴナは皇帝夫妻に近づいたグリゴリー・ラスプーチンを「危険な詐欺師」と呼んで嫌い、ラスプーチン言動皇帝威信を傷つけ始めると、皇帝夫妻ラスプーチン側近から除くよう忠告した皇帝がこれに沈黙したままなのに対し皇后が「それはできない」と返答すると、マリヤ皇后こそが国の本当統治者になっている見なし同時に皇后にはそのような立場に立つ能力欠けていることを嘆いた。「私の愚かな嫁は王朝自分自身破滅へと導いていることに気付いていない。彼女は本気であんな山師聖性とやらを信じ込み私たち迫りくる破局に対して無力です」。1914年2月皇帝アレクサンドラ説得聞き入れて首相ウラジーミル・ココフツォフ解任すると、マリヤは「そのようなことをしては皇后ロシア真の統治者だと見なされて文句言えませんよ」と息ニコライ皇帝非難した。そしてココフツォフを引見して言った、「嫁は私を憎んでます。私が彼女の権力嫉妬しているのだと考えているんです。彼女は私の願い息子幸福だということ気付いていない。破局が近づいているのに皇帝阿諛追従しか耳に入れようとしない…どうか、ご自分考え把握している一切皇帝打ち明けてほしいのよ…それがもう手遅れだとしても」。

※この「皇太后」の解説は、「マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)」の解説の一部です。
「皇太后」を含む「マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)」の記事については、「マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)」の概要を参照ください。

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皇太后

出典:『Wiktionary』 (2021/08/13 05:41 UTC 版)

名詞

こうたいごう

  1. 先代天皇皇帝きさき

関連語


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