治世初期
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「アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)」の記事における「治世初期」の解説
幼い頃から未来の皇帝の地位を約束されていたアレクサンドルは、有能な為政者になるべく帝王教育を受けた。帝国を統べるために必要なドイツ語・フランス語・英語・ポーランド語をマスターし、実際に政府機関に勤務して軍事・外交・財政などの政治的教養を身に付けていった。1855年、クリミア戦争がセヴァストポリ要塞の激戦を迎えている最中にニコライ1世が崩御したため、皇帝の座についた。戦局は悪化の一途をたどり、翌1856年3月にロシアは敗北を認め、パリ条約を結んだ。 クリミア戦争の敗北はロシアの支配階級に大きな危機感を抱かせ、帝国の弱体化の責任は既存の国家体制が抱く「立ち遅れ」に求められた。資本主義化・工業化のような経済発展、自由主義的な社会改革こそがロシアを救うと考えられたのである。農奴制改革について述べた「下から起こるよりは、上から起こった方がはるかによい」という言葉が示すとおり、アレクサンドル2世自身はこうした国家の西欧化改革を慎重に採用していくことで、伝統的な専制政治を延命させることが出来るという思想を以って改革に臨んだ。このため自由主義者とは改革に対するヴィジョンに最初から齟齬があった。
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治世初期
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「ジョージ6世 (イギリス王)」の記事における「治世初期」の解説
アルバートは統治名 (尊号) にジョージ6世(George VI)を選んだ。これは父王ジョージ5世の方針を引き継ぐことと、エドワード8世の退位騒動で揺らいだ王室への信頼を回復するという、アルバートの意思の表れだった。新たな国王ジョージ6世が最初に直面した問題は、前国王である兄エドワードの地位や称号の処遇だった。 退位宣言が発表されたときには「エドワード王子殿下(His Royal Highness Prince Edward)」とされていたが、ジョージ6世は、王位を放棄したエドワードが「王族の殿下」を意味する「Royal Highness」などの王族を意味する称号を名乗る資格を失ったのではないかと思っていた。最終的な妥協案として、エドワードには「ウィンザー公爵殿下 (His Royal Highness The Duke of Windsor)」の称号が贈られたが、このウィンザー公爵位の規定では、エドワードの妻、子供が王族を意味する称号を名乗ることは許されていなかった。 また、ジョージ6世はエドワードから王室伝来の邸宅も買い戻さなくてはならなかった。バルモラル城やサンドリンガム・ハウスなどは、エドワードが私有財産として相続したものであり、ジョージ6世が国王になったとはいえ、自動的に相続権が移転する性質のものではなかったためである。ジョージ6世が即位した3日後の1936年12月14日は、自身の41歳の誕生日だった。この日ジョージ6世は、妻エリザベスに王妃の称号とガーター勲章を贈っている。 ジョージ6世の戴冠式は1937年5月12日に挙行された。この日はもともとエドワード8世の戴冠式が予定されていた日だった。この戴冠式には、未亡人となった王妃は以降の戴冠式には姿を現さないという慣例を破って、故ジョージ5世妃メアリーが、新王ジョージ6世の支持を表明するために出席している。日本の皇室からは秩父宮雍仁親王と勢津子妃が昭和天皇の名代として参加し、外国王室筆頭の扱いを受けるなど、イギリスは同じ立憲君主国であり近年まで軍事同盟を結んでいながら、ナチス・ドイツとの関係を深めつつあった日本に配慮を示した。5月20日に行われたジョージ6世戴冠記念観艦式には、日本海軍から重巡洋艦「足柄」が参加した。 また、ジョージ5世が即位したときには挙行された、イギリス領インド帝国デリーでの新国王の公式謁見は、インドの植民地政府の費用負担が大きいとして行われなかった。当時のインドでは、スバス・チャンドラ・ボースやマハトマ・ガンディーらによる独立運動が活発化しており、国王夫妻がインドを訪問してもほとんど歓迎されない可能性が高かったため、独立推進派からもインドでの公式謁見中止は歓迎された。当時の国際情勢は第二次世界大戦直前の緊張したもので、インドにとってもイギリスとの長期にわたる関係悪化は望むところではなかったのである。ただし、国王夫妻のフランスと北米への外遊は実施された。どちらの外遊も、戦争に向けた戦略的優位性を確立するための公式訪問だった。 ヨーロッパで高まる戦争への気運が、ジョージ6世の統治初期に大きな影響を与えた。憲法上、国王たるジョージ6世には、首相ネヴィル・チェンバレンが推進するアドルフ・ヒトラーへの宥和政策に協力する義務があった。1938年のミュンヘン会談で、ヒトラーの要求をほぼ全面的に認める協定を締結したチェンバレンを迎えた国王夫妻は、チェンバレンにバッキンガム宮殿のバルコニーで国王夫妻とともに、国民からの歓迎を受ける特権を与えた。国王と政治家の友好関係を大衆の前で見せるのは極めて例外的であり、王宮のバルコニーからの謁見も伝統的に王族のみに許される行為だった。 当時のイギリス国民からは広く歓迎された、チェンバレン政権の対ヒトラー宥和政策だったが、イギリス議会庶民院ではこの政策に反対する意見もあった。歴史家ジョン・グリッグ (en:John Grigg) は、この時期のジョージ6世の政治的行動が「ここ数世紀のイギリス国王の中で、もっとも憲法に違反している」としている。 1939年5月から6月に国王夫妻はカナダとアメリカ合衆国を公式訪問した。国王夫妻の随伴として、オタワからカナダのウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング首相が同行し、北米各地でイギリス国王、王妃がカナダ国王でもあることを紹介する役割を果たした。ジョージ6世は、ヨーク公アルバートの時代にカナダを訪問したことがあるが、カナダ国王として北米を訪問した最初のイギリス国王でもある。 カナダのジョン・バカン総督(John Buchan, 1st Baron Tweedsmuir)とマッケンジー・キング首相は共に、今回のイギリス国王のカナダ訪問が、1931年に発布されたウェストミンスター憲章の精神の実証となることを望んでいた。ウェストミンスター憲章は、各イギリス自治領により広範な自治権を与え、イギリス国王をそれぞれの国が自国の国王として戴くという憲章である。ジョージ6世のオタワでの滞在先は総督公邸のリドー・ホールで、この場所でジョージ6世は新たにカナダに赴任するアメリカ公使ダニエル・カルフーン・ローパーの信任状を受領し、認可している。イギリス国王夫妻のカナダ訪問の公式記録者であるカナダの歴史家ギュスターヴ・ランクトは、イギリス国王のカナダ訪問の様子を「国王陛下ご夫妻がカナダでの滞在先(リドー・ホール)に入られたときに、ウェストミンスター憲章が真の意味で完全なものになった。カナダ国王が自国へと帰還されたのである」としている。 このイギリス国王夫妻の北アメリカ訪問には、当時ヨーロッパで高まりつつあった諸国間の緊張のために、アメリカ合衆国やカナダの民衆の間に現れつつあった強固な孤立主義者たちの態度を軟化させるという意義もあった。近いうちにヨーロッパで起こるであろう戦争に備えて、イギリスへの支援を要請するという政治的目的を主眼とした公式訪問ではあったが、ジョージ6世とエリザベスは北米の民衆から熱狂的な歓迎を受けている。 前国王エドワード8世に比べてジョージ6世は見劣りがするのではないかという噂もあったが、そのような懸念は見事に払拭された。ジョージ6世とエリザベスはカナダからアメリカに向かい、1939年のニューヨーク万国博覧会に出席した。アメリカでは大統領公邸のホワイトハウスでアメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトと会談し、ハイド・パーク (en:Hyde Park, New York) にあったルーズヴェルトの私邸 (en:Home of Franklin D. Roosevelt National Historic Site) を訪問している。アメリカ公式訪問を通じて、イギリス国王夫妻とアメリカ大統領ルーズヴェルト夫妻との間に強い信頼関係が結ばれ、この友情が第二次世界大戦でのアメリカとイギリスの関係に大きな影響を及ぼした。
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治世初期
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「ジョージ3世 (イギリス王)」の記事における「治世初期」の解説
詳細は「七年戦争におけるイギリス(英語版)」を参照 ジョージ3世は即位演説で議会に「この国で生まれ、教育を受けたわたしは、イギリスの名を誇りとする」と宣言した。イギリスよりハノーファーを優先した先代・先々代から距離を置く決心を示すべく、この宣言をハードウィック伯爵が書いた演説に付け加えた。 ジョージ3世の即位はすべての政党に歓迎されたが、その治世の初期は七年戦争に関する対立により政治不安に見舞われた。また、トーリー党をひいきにしたとみられたため、ホイッグ党からは独裁君主であると批判された。ジョージ3世が即位した時点では王室御料地(英語版)からの収入が少なく、歳入の大半は税金や物品税で占められた。そのため、ジョージ3世はクラウン・エステートを議会に譲って、その代わりに王室家政と文民政府の支出のための王室費(年金)支払いを同意させた。王室費を支持者への賄賂や贈与に使ったとの指摘は歴史家からは「不満げな人々からの反対によるいつわり」として疑いをさしはさまれた。ジョージ3世の治世を通して、王室の負債3百万ポンドは議会によって支払われ、王室費の年金はたびたび増額された。彼は私財を投じて王立芸術院に多額の助成金を与え、収入の半分以上を寄付した可能性もあった。彼の美術品コレクションのうち、最も特筆に値するものはヨハネス・フェルメールの音楽の稽古とカナレットの作品集だったが、彼は書物の収集家として最も記憶された。キングス・ライブラリ(英語版)は当時の学者に公開され、新しい国立図書館の礎となった。 1762年5月、第2次ニューカッスル公爵内閣が倒れ、トーリー党でスコットランド出身のビュート伯爵が組閣した。ビュート伯と敵対した政治家たちはビュート伯とジョージ3世の母が不倫をしていたと中傷し、当時のイングランド人の間の反スコットランド風潮も利用した。庶民院議員ジョン・ウィルクスはザ・ノース・ブリトン(英語版)という煽動的な新聞を出版してビュート伯とその政府への中傷を盛んに行った。ウィルクスは後に煽動誹謗罪(英語版)で起訴されたが、彼はフランスへ逃亡して懲罰を逃れた。彼は庶民院から追放され、不在のまま不敬と誹謗で有罪とされた。1763年、戦争を終結させたパリ条約を締結した後、ビュート伯は辞任、ホイッグ党が与党に返り咲きジョージ・グレンヴィルが首相に就任した。 同年、ジョージ3世の1763年宣言によりアメリカ植民地のアパラチア山脈西側への拡張が制限された。宣言の目的は植民地拡張を南北(フロリダとノバスコシア)に振り向けることにあった。宣言で定められた境界は入植した農民の大半に影響を及ぼさなかったが、一部の声の大きい者の間では不人気であり、植民地人とイギリス政府の間の紛争に発展した。当時、アメリカの植民地人のほとんどがイギリスの税金を支払わなくてもよかったため、イギリス政府は原住民の反乱とフランスによる遠征の可能性を考慮して、植民地の防衛のための支出を支払わせることが適当であると考えた。植民地人にとって、主な問題は税金の金額ではなく、議会がアメリカの同意なしに税金を徴収できるかの問題である(当時、アメリカ人は議会に代表を出せなかった)。アメリカ人はイギリス人のように「代表なくして課税なし」の権利があると抗議した。1765年、グレンヴィルは印紙法を導入、北米におけるイギリス植民地の全ての文書に印紙税を課した。新聞は印紙された紙に印刷されたため、印紙税の導入の煽りを最も強く受けているものは同時に税金反対のプロパガンダを得意とした。一方、ジョージ3世はグレンヴィルが国王大権を減らそうとしたことに憤激しており、彼は大ピットに首相就任を打診した。短期間の病気の後、ジョージ3世はグレンヴィルを罷免、ロッキンガム侯爵に組閣の大命を降下した。 ロッキンガム侯爵は大ピットとジョージ3世の支持を得て、グレンヴィルの不人気な印紙法を廃止したが、彼の内閣は弱く、1766年には大ピットに更迭された(同年、大ピットはチャタム伯爵に叙される)。大ピットとジョージ3世が印紙法を廃止したことで2人はアメリカで大人気になり、ニューヨーク市(英語版)に2人の像が立てられたほどであった。チャタム伯は1767年に病気になり、代わりにグラフトン公爵が政府を率いたが、彼が正式に首相になったのは1768年のことだった。同年、ジョン・ウィルクスは帰国し、1768年イギリス総選挙で立候補、ミドルセックス選挙区(英語版)で得票数1位になって当選したが、再び議会を追放された。ウィルクスはその後、再選と追放をさらに2回繰り返したが、庶民院はウィルクスの被選挙権を無効とし、2位のヘンリー・ラットレル(英語版)が繰り上げ当選を果たした。グラフトン公の内閣が1770年に解体したことにより、ノース卿率いるトーリー党が与党に返り咲いた。 ジョージ3世は敬虔で、毎日数時間を祈りに使うほどであったが、この敬虔さは彼の弟たちには全く見られなかった。ジョージ3世は弟たちのルーズさにぞっとした。1770年、ジョージ3世の弟カンバーランド=ストラサーン公ヘンリー・フレデリックの姦夫スキャンダルが暴露され、彼は翌年に若い未亡人のアン・ホートン(英語版)と結婚したが、彼女は低い身分の出身であり、ドイツの法では2人の子供によるハノーファーの継承を禁止していた。そのため、ジョージ3世はアンを王室の花嫁としては不適切であると考えた。彼は国王の許可なしに王族が結婚することを禁止する法を制定するよう強く要求した。この法案は議会で不人気であり、閣僚の一部すら反対したが、それでも1772年王室婚姻法(英語版)として成立した。直後、ジョージ3世のもう1人の弟であるグロスター=エディンバラ公ウィリアム・ヘンリーはエドワード・ウォルポール(英語版)の庶子マリア(英語版)(当時ウォルデグレイヴ伯爵未亡人)と秘密結婚していたことを明かした。マリアがジョージ3世の政敵とつながっていたこともあり、このニュースはジョージ3世の意見の正しさを証明した。アンもマリアも、宮廷に受け入れられたことはなかった。 ノース卿の内閣は主にアメリカにおける不満に関心を寄せた。アメリカ人をなだめるために、ジョージ3世が「[徴税の]権利を保持するための、ただ1つの税」と称した茶税を除くほとんどの関税が撤廃された。1773年、後にボストン茶会事件として知られるようになった事件において、植民地人はボストン港湾(英語版)に停泊中の紅茶輸送船に乗船して、紅茶を海に捨てた。イギリスでは植民地人に対する意見が硬化、チャタム伯も紅茶の破壊が「確実に犯罪である」とした。議会の明らかな支持を得て、ノース卿は耐え難き諸法と植民地人に呼ばれた一連の法律を導入した。ボストン港(英語版)は閉鎖され、マサチューセッツ湾直轄植民地の解説勅許(英語版)はマサチューセッツ統治法(英語版)で改正され、マサチューセッツ上院議員の選出が下院議員による選挙からイギリス国王による任命に変更された。ピーター・トマス教授によると、ジョージ3世は「政治的な解決策を望み、閣僚の意見にはその成功の可能性を疑っていたとしてもそれに従った。1763年から1775年までの詳しい証拠はジョージ3世をアメリカ独立革命への実質的な責任を免れさせる傾向にある」。アメリカ人はジョージ3世を暴君として仕立て上げたが、彼はこの時期には閣僚の取り組みを支持する立憲君主として振舞った。
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治世初期(1863年〜1870年)
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「ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)」の記事における「治世初期(1863年〜1870年)」の解説
17歳の新王は、1863年10月30日にアテネに到着した。ゲオルギオス1世は前王の過ちを繰り返さないことを決心し、母国語のデンマーク語に加えてすぐにギリシャ語を習得した。また、華美な服装で人前に現れる前王とは対照的に、格式張らない姿でアテネの街中に出歩いていた。ゲオルギオス1世は、前王が慌てて亡命した後に、荒れ果てた状態になっていた宮殿を目の当たりにして、混乱を平定した後に築40年となっていた建物を新しくした。また、デンマークから送られた顧問などからの干渉を受けないことを確かなものにしようとし、叔父への手紙の中でも「自分の政府の方針に対するいかなる干渉も許さない」と言い切った。 政治面では、議会で長引いていた憲法審議を終えるための処置を採った。1864年10月19日に、ゲオルギオス1世はコンスタンティノス・カナリス首相の承認を受けた要求状を議会に送り、「私は新しい憲法が完成するということを前提に王位を受け入れたのであって、そうでない場合は“私の希望が挫折されることを意味することなので、そういう措置を受け入れる完全な自由”が欲しい」と説明した。この言葉は、ゲオルギオス1世がデンマークに帰国するということなのか、憲法を要求するということなのか意味は明らかではなかったが、いずれの事態も望ましい状況ではなかったため、議会はすぐに協定を結ぶに至った。 1864年11月28日に、ゲオルギオス1世は新しい憲法を守護することを宣誓し、この憲法では近代ヨーロッパにおいて初めて全ての成人男性による直接・秘密・普通選挙を通じて代表を選出するように規定がなされた。ゲオルギオス1世は、選挙に腐敗があることや大部分が文盲である国民を統治することに困難があることを懸念したが、選ばれた当局者に適法した権限を任せることによって立憲君主制を成立させた1864年から1910年までの間に、21回の総選挙と、70回もの内閣の交代があった。 国際的にゲオルギオス1世は、義兄であるイギリスのエドワード王太子と緊密な関係を維持し、当時オスマン帝国の支配下にある一方で、ギリシャ系住民が人口の大多数を占めていたクレタ島問題を解決するために、彼の援助を取り付けようとした。オソン1世の統治以来、ギリシャ人の地を一つの国で結び付けたいというギリシャの願望は、イギリスとフランスにとって頭痛の種であり、両国はクリミア戦争の間に、ギリシャの民族統一主義を思い止まらせるためにピレウス港を占領し、オソン1世を戸惑わせたりした。1866年にクレタ島で反乱が起きると、プリンス・オブ・ウェールズはエドワード・スタンリー英外務大臣の援助を受けて、ギリシャに代わってクレタ島に介入しようと試みた。しかし、列強はクレタ島には介入せず、オスマン帝国は反乱を鎮圧した。
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治世初期
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「ステファン・ウロシュ2世ミルティン」の記事における「治世初期」の解説
ステファン・ウロシュ1世の末子として生まれ、アンジュー家出身のヘレナを母に持つ。兄ステファン・ドラグティンが退位したことで急遽王位に就き、即位時点で29歳を超えていた。即位当時、シチリア王シャルル・ダンジュー、ローマ教皇マルティヌス4世らが反ビザンツ(東ローマ帝国)活動を積極的に行っており、ウロシュ2世はテッサリアの支配者ヨハネス1世と協力してマケドニアのビザンツ(東ローマ帝国)領を攻撃した。1282年に歴代のセルビア王が達成できなかったスコピエを初めとするマケドニア北部の獲得に成功し、スコピエを首都に定めた。ビザンツ皇帝ミカエル8世は対セルビア戦争の準備を始めるが、準備が整う前に没し、翌1283年にミルティンは彼の兄弟と共にビザンツ領の奥深くまで進攻してカヴァラにまで達した。1284年にはアルバニア北部およびディラキウムを支配下に置いた。15年間戦況に変化は無かったが、アンドロニコス2世からビザンツの王女の婚姻を条件とした和平が提案され、休戦に至った。当初はトレビゾンド皇帝ヨハネス2世の未亡人でアンドロニコス2世の姉妹であるエヴドキアがウロシュ2世の妃に選ばれたが、エヴドキアが結婚を拒否したため、わずか5歳であったアンドロニコス2世の娘シモニスがセルビアに嫁ぐことになった。ウロシュ2世はこの婚姻によってドラグティンに対して優位に立つことができ、また国威の向上にもつながると考えて提案を受け入れた。婚姻の際にウロシュ2世がビザンツとの戦争で獲得した征服地は婚資としてそのままセルビアに属し、征服したビザンツの領土はセルビアの宮廷文化と行政制度にビザンティン文化の影響を及ぼした。
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