統治初期
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「ムーレイ・イスマーイール」の記事における「統治初期」の解説
権力掌握後、ムーレイ・イスマーイールは幾つかの反乱に直面した。最も大きなものが甥のムーレイ・アフメド・ベン・メレスによる反乱で、これに続くのがタフィラルトの王という肩書を僭称したハーラン・イブン・シャリーフを含む兄弟による反乱である。テトゥアンの将軍カディール・ガイランも幾つかの部族や宗教団体と共に反旗を翻した。 ラシードの訃報がシジルマサに届いた時、アフメド・ベン・メレスは自分がスルターンだと宣明するためマラケシュへと急いだ。アル・ホウズ州の部族、スースのアラブ族、マラケシュの住民が加わり、彼はこの地域を支配することができた。甥アフメドはこれら南部の部族を結束させ、マラケシュでスルターンを宣明した。これを受けて、イスマーイールは1672年4月27日に甥に対する討伐を開始し、砲撃の成果もあって勝利した。彼がマラケシュの街に入ると、1672年6月4日にイスマーイールがスルターンだと認められた。アフメドは銃弾で負傷し、山中に逃亡した。イスマーイールはマラケシュの住民を許し、街の防御を再構成した。その後フェズに戻った彼は兄ラシードの棺を廟内に葬り、1672年7月25日にメクネスに帰還した。 イスマーイールは帝国の組織を整え、サハラへの遠征に備えて自軍兵士に物品を配給した。しかし1672年8月26日にフェズの街で反乱が発生し、遠征隊長になる筈だった司令官ジダン・ベン・アビド・エラムリがその反乱で殺害された。スルターンの部隊も街から追放されたため、この計画は破棄された。イスマーイールは急遽駆けつけると、街壁の外側で野営を張った。数日に及ぶ紛争後、フェズの貴族達は絶望して甥のアフメド・ベン・メレスに救援を訴えた。 アフメドは貴族達の訴えに好意的に応じてタザへと向かい、そこで再びスルターンを宣明した。 一方、カディール・ガイランはフェズに使者を派遣して、自分が海路でアルジェからテトゥアンに到着したことを住民に知らせた。これらの出来事が国内に深刻な情勢不安を巻き起こした。イスマーイールはタザに進軍すると数カ月に及ぶ包囲を経て相手を降伏させ、アフメドはサハラに逃亡せざるを得なくなった。フェズの包囲継続中に イスマーイールは北西に転進、オスマン領アルジェリアの助けを借りてハブト地域を支配していたカディール・ガイランと対峙した。12,000人の部隊と共にイスマーイールはこの反乱を鎮圧すると北部の州を制圧し、1673年9月2日にクサール・アルケビールでガイランを斃した。再び彼がフェズに戻ると、依然として自軍が包囲を続けていた。約14か月の包囲を経て、1673年10月28日に市の中心部フェズ・ジェディドはようやく門を開いた。イスマーイール はフェズの住民に恩赦を与えた。 彼は都市を再編し、フェズ・エルバリとフェズ・ジェディドの郊外を担当する首長を任命した。 メクネスに戻ると、イスマーイールは建設工事を続行して幾つかの宮殿を建てた。彼は甥のアフメド・ベン・メレスにまたも謀反を起こされ、1673年5月以降はアフメドがマラケシュを掌握した。1674年にそれを知ったイスマーイールは、山賊行為に従事していたアンガド地域のアラブ部族討伐にまず着手した。彼はスゴウナ族を徹底的に打ちのめし、甥を討伐する大規模作戦の準備を整えた。イスマーイールは自軍の先陣を切ってタドラ地方に進軍し、そこでアフメド・ベン・メレスの軍隊と遭遇した。イスマーイールは甥の軍隊に勝利し、その軍指揮官を殺害した。アフメドはマラケシュまで追い立てられ、そこに籠城した。イスマーイールは街を包囲すると1674年に武力でそこを奪取、アフメドにドラア州への逃亡を余儀なくさせた。その後スルターンはシャウィーア部族に対する軍事作戦を幾度か指揮した。同年、高中アトラスのサンハジャ部族が敬意を払うことを拒否した後に反乱を起こし、スルターンの使節団を虐殺した。(これを知って)イスマーイールは最初の討伐遠征を開始し、サンハジャが身を固めている山岳の根城から彼らを追い出そうとした。スルターンの軍隊は、8,000のベルベル人歩兵と5,000のベルベル騎兵からなる部隊によって撃退された。これに続く2回目の遠征ではスルターン軍が反逆者側を大敗させ、大量の戦利品を獲得した。 1675年、甥アフメドはタルーダント住民の助けを借りて密かにマラケシュに戻ると、王室の軍隊を追放して街を占拠した。イスマーイールはもう一度マラケシュを包囲下に置いた。この戦闘は血みどろで、特に1676年6月は双方の死傷者が非常に多かった。1677年6月26日、最終的にアフメドは町から逃亡せざるをえなくなり、スースに向かった。今回、イスマーイールはアフメドを支援した罰として街を激しく破壊した。 マラケシュ駐留中のイスマーイールは、アフメド・ベン・アブデラ・アディラーイ(ムハンマド・アル=ハッジ・イブン・アブ・バクル・アディラーイの孫)が山岳からサンハジャ部族の大軍を集めてムールーヤ川を渡り、タドラとサイスのアラブ部族を襲撃して、彼らをフェズ、メクネス、セールの各都市に逃亡を余儀なくさせたことを知った。アフメドは解散したディーラーイー教団を復活させようとしており、オスマン帝国領アルジェリアに支援されていた(その昔彼に避難所を提供していた)。イスマーイールはアフメド・ベン・メレスの件で忙しかったため、騎兵3000からなる自治部隊を派遣した。 彼らはアフメド・ベン・アブデラのベルベル軍に敗れ、部隊の司令官が殺された。その後イスマーイールはさらに兵士4000人からなる軍隊を2組派遣するが双方とも(最初はメクネス近郊で、次がカスバタドラ)敗れてしまい、サンハジャによってどちらも占拠され破壊された。一方イスマーイールは、ムーレイ・ハーラン、ムーレイ・ハンマダ、ムーレイ・ムラド・メレス(アフメド・ベン・メレスの父)の3兄弟が反乱を起こしてタフィラルトを攻撃したことも知った。スルターンとしてイスマーイールは最初にタドラで情勢不安に対処することを決定した。 彼は個人的にベルベル人に干渉して戦闘へと仕向け、そこでは3000人のベルベル人と数百人の帝国軍兵士が死亡したと言われている。彼はタドラを奪還し、大砲やウダヤのジャイシュによって実行された包囲作戦で中アトラス地域を安定させた。サイード・アブデラ・エルルーシによって700人近い反逆者の頭がフェズの壁に打ち付けられた1677年末にイスマーイールはメクネスに帰還し、兄弟による反乱を終わらせた。彼はムーレイ・ハーランを捕らえたが、処罰しないことを選んだ。
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統治初期
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16世紀初頭、オスマン帝国はこの地域勢力を拡大し、南東ヨーロッパにまで到達した。スペインの王カルロス1世は、ローマがトルコ人の支配下になった場合、キリスト教ヨーロッパの終わりになることを恐れていた。1522年、スレイマン1世は聖ヨハネ騎士団をロードス島から追い出した。彼らはヨーロッパの各地に分散した。ローマを南からの侵入から守りたい、1530年、南方からの侵略からローマを守ろうとしたカルロス1世は、島々を騎士団に譲り渡した。この有名な「マルタ騎士団」は275年もの間島を治め、イタリア語を公用語にした。彼らは町や宮殿、教会、庭園、要塞などを建設し、数々の芸術作品によって島を装飾し、文化遺産を充実させた。 聖ヨハネ騎士団は、もともと聖地への道筋に前哨基地を設置し、どちらへ向かうかわからない巡礼者を支援するために設立された。多くの紛争が発生したため、医療援助が主な任務の一つとなり、現在でも救急車や救急団体に八芒星が広く使用されている。多くの人命を救った見返りとして、騎士団は新たに征服した多くの領土を防衛する必要があった。また、巡礼者を保護する必要性から、騎士団は強力な軍事部門を持つようになった。やがて、騎士団は強く、豊かになり、医療が1番、軍事が2番だった優先順位は逆転した。騎士団は地中海沿岸を領地としていたため、船乗りとしても活躍した。 マルタから騎士団はオスマン帝国の海上攻撃を再開し、やがてスレイマン1世は騎士団への最後の攻撃を命じました。この時までに、騎士団は艦隊を収容するための優れた港を持っていたビルグの街を占領していた。ビルグはマルタの旧首都イムディーナと並ぶ当時主要な都市の1つであった。ビルグ周辺の防御が強化され、現在セングリアがあるもう一方の地点に新しい要塞が建設された。バレッタ市が現在立っている半島の先端に小さな砦が建設され、聖エルモ砦と名付けられた。
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統治初期
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「日本統治時代の台湾行政区分」の記事における「統治初期」の解説
1895年から1898年までの期間、行政区分は頻繁に変更が行なわれた。1898年から1901年までの期間は、三県による行政区分構造が維持されていた。 1895年5月-1895年8月(三県一庁)1895年8月-1896年3月(一県二民政支部一庁)1896年4月-1897年6月(三県一庁)台北県 台北県 台北県 台湾県 台湾民政支部 台中県 台南県 台南民政支部 台南県 澎湖島庁 澎湖島庁 澎湖島庁 1897年6月–1898年6月(六県三庁)1898年6月-1901年4月(三県三庁)1901年5月-1901年11月(三県四庁)台北県 台北県 台北県 新竹県 台中県 台中県 台中県 嘉義県 台南県 台南県 台南県 鳳山県 恆春庁 宜蘭庁 宜蘭庁 宜蘭庁 台東庁 台東庁 台東庁 澎湖庁 澎湖庁 澎湖庁 恆春庁:新設、台南県から分離
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