統治体制と遺産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:19 UTC 版)
「ムハンマド3世 (ナスル朝)」の記事における「統治体制と遺産」の解説
ムハンマド3世は盲目であったために頻繁に政務から離れ、後にワズィールのイブン・アル=ハキームが絶対的な権力を得るきっかけを与えることになった。イブン・アル=ハキーム以外で指導的な立場にあった公職者には1303年に死去するまで共同でワズィールを務めたアブー・スルターン・アズィーズ・ブン・アル=ムニイム・アッ=ダーニー、アル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの長官のハンムー・ブン・アブドゥルハック、そしてマラガにおけるアル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの司令官であったウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーなどがいた。義弟であり従叔父でもあるアブー・サイード・ファラジュはマラガの総督を務めた。司法関係では父親の下でカーディー・アル=ジャマー(カーディーの長官)を務めたムハンマド・ブン・ヒシャームが1304年か1305年に死去すると、後任としてイブン・ファルクーンの名でも知られているアブー・ジャアファル・アフマド・アル=クラシーを任命した。二番目に高位の司法職であるカーディー・アル=マナーキフ(婚姻の裁判官)は北アフリカ出身のムハンマド・ブン・ルシャイド(英語版)が務めていたが、同様にグラナダの大モスクのイマーム(礼拝の指導者)とハティーブ(英語版)(説教師)も兼任していた。 ムハンマド3世はナスル朝の王宮と要塞の複合施設であるアルハンブラ宮殿に大モスク(al-masjid al-a'ẓam)の建設を命じた。イスラーム教徒による史料はこのモスクの優雅さについて言及しているが、ナスル朝滅亡後の1576年にスペイン王フェリペ2世(在位:1556年 - 1598年)がモスクをサンタマリア教会に建て替えたために今日では残っていない。ムハンマド3世はこのモスクを円柱や照明器具で装飾し、近くに建設した公衆浴場の使用料を原資とする恒久的な収入源(ワクフ)を与えた。また、パルタル宮(英語版)を含む他のアルハンブラ宮殿内の建築にも携わった。 ムハンマド3世の後継者で異母弟のナスルは、マリーン朝、カスティーリャ、およびアラゴンによる三国同盟に対する戦争を引き継いだ。ナスルはアラゴンに対してはアルメリアで決定的な勝利を収め、カスティーリャに対してはアルヘシラスで退けることに成功した。しかし、他の戦線ではあまり成功を収められなかった。最終的には和平を得るためにセウタをマリーン朝に、ケサーダとベドマルをカスティーリャに返還せざるを得なくなり、ムハンマド3世が獲得した領土のほとんどを手放した。さらにマリーン朝にはアルヘシラスの割譲を強いられ、カスティーリャにはジブラルタルを奪われた。その後ナスルは1314年に甥にあたるイスマーイール1世によって追放された。 ムハンマド1世とムハンマド2世が長く安定した治世を送ったのとは対照的に、ムハンマド3世は即位後7年で退位させられた。歴史家たちはムハンマド3世に「アル=マフルー」(al-Makhlū,「退位させられた者」の意)という通り名を与えたが、ナスル朝の後継者の多くが同様に退位させられたにもかかわらず、もっぱらムハンマド3世のみがこの通り名で呼ばれている。また、ムハンマド3世とナスルが失脚し、その後に後継者を残さないまま死去したことで、王朝の創設者であるムハンマド1世から続く男系男子によるスルターン位の継承が途絶えた。イスマーイール1世以降のスルターンの地位は、ムハンマド2世の娘のファーティマとその夫で王家の支流の出身であるアブー・サイード・ファラジュ(ムハンマド1世の甥にあたる)の子孫が継承した。ナスル朝は1492年にカトリック両王によって征服されるまで、さらに2世紀近くにわたってイベリア半島における唯一のイスラーム国家として存続した。
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