統治体制の完成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:45 UTC 版)
その後、王位はシャープール2世に引き継がれた。シャープール2世胎児の時から即位が決まっており、彼の母親の腹の上に王冠が戴せられ、兄たちは殺害・幽閉された。こうしてシャープール2世は生誕と同時に即位し、サーサーン朝で史上最長の在位期間を持つ王となった。少年時代は貴族達の傀儡として過ごしたが、長じるに順(したが)って実権を握った。シャープール2世はスサの反乱を速やかに鎮圧し、城壁を破壊。また前王の死後に領内に侵入していたアラブ人を撃退し、アラビア半島奥深くまで追撃して降伏させた。ローマ軍との戦いでは、363年にクテシフォンの戦い(英語版)で侵攻してきた皇帝ユリアヌスを戦死させ、アルメニア支配権を握った。東方のトゥーラーンではフン族の一派と思われる集団が侵入したが、シャープールは彼らを同盟者とすることに成功した。 対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治に関しては数多くの都市を再建し各地に要塞・城壁を築いて外敵の侵入に備えた。また、ナルセ1世以来の宗教寛容策を捨て、ゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教・マニ教への圧力を強めた。こうしてシャープールの治世では、サーサーン朝の統治体制が1つの完成を見たとされる。
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