サーサーン朝
サーサーン朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 20:15 UTC 版)
詳細は「エフタル」および「サーサーン朝」を参照 アルシャク朝の治世後期はローマとの戦争を除き情報が乏しいが、王位継承を巡って激しい内乱が繰り返し発生していた事がわかっている。またローマとの戦いでは中核地帯であるメソポタミアが度々占領されるなど、大きな損害を数度に渡り被った。このような戦乱の代表的なものは西暦110年代のローマ皇帝トラヤヌスによるパルティア遠征である。 最終的にアルシャク朝はイラン高原南西部で発生した反乱によって滅亡した。208年頃、ファールス地方の支配者パーパクの元でアルシャク朝に対する反乱が起きた。同じ頃、アルシャク朝ではヴォロガセス6世とアルダヴァーン4世(アルタバヌス4世)による内乱が発生した。アルシャク朝の内乱の最中、ファールスで新たに支配者となったアルダシール1世は226年までに二人のアルシャク朝の王を相次いで倒し、新たにサーサーン朝を建てた。サーサーン朝は間もなく旧アルシャク朝の領域のほぼ全てを支配下に置いて諸王の王を称するようになり、更に西ではローマ皇帝を捕虜とする大勝利を収め、東ではクシャーナ朝を支配下においた。そしてその中心都市はイラクのクテシフォンに置かれた。ただし、パルティア時代の大貴族の多くがサーサーン朝時代にも大きな力を持ち続けた点に見られるように、サーサーン朝の政治機構や文化、社会は多くの面おいてアルシャク朝時代の継続であった。 サーサーン朝は支配の正統性をゾロアスター教に求めた。アルダシール1世に仕えた祭司長タンサールの元でゾロアスター教は体系化され、正典と統一的な教会組織が形成された。こうした中で教会の勢力は増大し、シャープール1世(241年-272年)の時代に祭司長となったカルティールはやがて国王に匹敵する権力を得た。この時代のイランは諸宗教が渦巻く時代であった。正統な教義の制定に伴って教義論争・宗教対立が激化した。古くからイランに存在したズルワーン主義、サーサーン朝と時を同じくして成立したマニ教、またローマに対する勝利によって得られた捕虜達からはキリスト教が広まり、一定の勢力を得たし、東部領土には仏教を信仰する人々もいた。カルティールがこういった異端、異教を弾圧したことを誇っているように、宗教弾圧がしばしばあった。 サーサーン朝は王位継承紛争に悩まされながらも4世紀を通じてローマとの戦いを優位に進め、ローマを苦しめた遊牧民フン族の移動でも彼らの圧力をかわすことに成功していた。しかし5世紀には中央アジアで勢力を拡大したエフタルに相次いで敗北し、貢納を収めるようになった他、中小貴族の没落や飢饉の発生による社会不安の中で、急進的なマズダク教が広まり、彼らによる反乱や暴動が頻発するようになった。 6世紀に入るとホスロー1世(531年-579年によってエフタルが滅ぼされ、国内で盛んになっていたマズダク教を徹底弾圧して抑え、安定した時代を築いた。この時代には定額税制が導入され、軍制と身分制が確立した。繁栄は長く続き、ホスロー1世の孫、ホスロー2世(591年-628年)の時代には一時東ローマ帝国の支配下にあったシリア、エジプト、アナトリアを一時占領した。しかし東ローマの反撃でホスロー2世は敗れ、最後は反乱によって殺害された。この結果サーサーン朝では深刻な政治混乱が発生し、短期間に王が次々と交代した。混乱の中でヤズデギルド3世(632年-651年)が即位したが、この政治混乱とカーディスィーヤの戦い(636年)等の敗戦による弱体化は明らかであった。7世紀半ば、疲弊していたサーサーン朝はアラビア半島から勢力を拡大したアラブ人たちによって攻撃され、首都マダーインの陥落、ニハーヴァンドの戦い(642年)での敗北によって瞬く間に瓦解し、逃亡したヤズデギルド3世が殺害(651年)されたことによって完全に滅亡した。
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サーサーン朝
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「ファールス (イラン)」の記事における「サーサーン朝」の解説
「ファールス地方のサーサーン朝考古景観」も参照 3世紀初め、パールサの支配権を得たと推定されるパーパクに代わり、224年に即位したアルダシール1世(在位:224年 - 241年)はイスファハーン北方でパルティア最後の王アルタバヌス4世(在位:213年 - 224年)を破り、230年までにはメソポタミア全域を支配し、長男のシャープール1世(在位:240年頃 - 272年頃)の代でサーサーン朝を創始した。
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サーサーン朝
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ハランの地は勃興するサーサーン朝に飲み込まれその支配下にあった。
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サーサーン朝
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サーサーン朝は、アケメネス朝の正統な後継者を称し、アルサケス朝と戦いに勝利し、アケメネス朝ペルシアの称号を引き継いだ。ローマ帝国との抗争ではシャープール1世はヴァレリアヌスを捕虜にした。東ローマ帝国との抗争ではホスロー1世はユスティニアヌス1世から賠償金を得た。ホスロー1世は突厥の室点蜜と同盟を結び、サーサーン朝を圧迫していたエフタルを滅ぼした。ヤズデギルド3世の時代にニハーヴァンドの戦いで正統カリフ時代のイスラム帝国に敗北して崩壊し、再起を目指したが滅亡した。
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サーサーン朝
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その後サーサーン朝のアルダシール1世は、この都市を再建してヴェーウ・アルダシール(Veh-Ardashir)と改名した。
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