アクスム・サーサーン戦争とは? わかりやすく解説

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アクスム・サーサーン戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/03 01:32 UTC 版)

アクスム・サーサーン戦争

サーサーン朝の将軍ワフリーズ英語版マスルーク・イブン・アブラハ英語版を射殺する様子を描いた挿絵、『Tarikhnama』より
570年-578年
場所南アラビア
結果 サーサーン朝の勝利
領土の
変化
サーサーン朝領イエメン英語版の確立
衝突した勢力
サーサーン朝
ヒムヤル王国
アクスム王国
指揮官
ホスロー1世
ワフリーズ英語版
サイフ・イブン・ズィー・ヤザン英語版 
ナウザド 
マスルーク・イブン・アブラハ英語版 
部隊
歩兵:16,000(近代の推定)
騎兵:800(タバリーによる)
6,000~10,000

アクスム・サーサーン戦争(アクスム・サーサーンせんそう)は6世紀にアクスム王国サーサーン朝の間で勃発した戦争である。両王国が南アラビアの支配権を巡って争った。戦争の結果、アクスム王国は紅海の制海権を失い、サーサーン朝はイエメン英語版を獲得し、交易ルートも支配下においた[1]

520年代、アクスム王国は南アラビアに侵攻英語版し、ナジュラーンキリスト教徒共同体英語版を迫害していたズー・ヌワース英語版を廃位し、ヒムヤル王国を併呑した。570年までに、ヒムヤル王族の末裔サイフ・イブン・ズィー・ヤザン英語版は、アクスム王国の勢力を駆逐しようと目論み、軍事援助を東ローマ帝国に求めたが拒否され、サーサーン朝に求めた。サーサーン朝のシャー(皇帝)ホスロー1世は、アクスム王国を打ち負かした暁には、ヒムヤル王国の領土をサーサーン朝が併合するという条件を設け軍事援助を約束した。サーサーン朝軍は南アラビアに侵攻し、ハドラマウトの戦い英語版サナア包囲戦英語版で勝利し、ナジュラーンを除いたアラビア半島のほぼ全域からアクスム王国の勢力を駆逐した。サーサーン朝領イエメン英語版の設立に伴い、サイフ・イブン・ズィー・ヤザンがイエメンが共同統治者として任命された。しかし、サイフ・イブン・ズィー・ヤザンがアクスム系の家臣によって殺害されると、アクスム王国が再征服に乗り出した。サーサーン朝は2度目の侵攻を開始し、イエメンを再び征服英語版し、以降アクスム王国の勢力がアフリカ外に伸長することはなかった。サーサーン朝の将軍ワフリーズ英語版がイエメンの総督に任命され、572年から591年にわたる東ローマ・サーサーン戦争英語版では、親ビザンツ勢力の影響を抑制している。

サーサーン朝は7世紀まで、南アラビア中に軍隊駐屯地を維持した。この時期に、アル・アブナー英語版と呼ばれる共同体が出現した。サーサーン朝の兵士が地元のアラブ人女性と結婚することが多く、イラン人アラブ人の両方の血統を引き継ぐ人々で構成された共同体がアル・アブナーである。アル・アブナーの共同体は、ごく初期のイスラム教徒としてイスラム教の拡大英語版にも貢献した。

概要

背景

アクスム王国の南アラビア侵攻

520年頃、アクスム王国の国王カレブ英語版(キリスト教徒名。王としてはエッラ・アスベハ)は、イエメンに軍隊を派遣し、ナジュラーンキリスト教徒共同体英語版に迫害を続け悪名を募らせた、ヒムヤル王国ユダヤ人国王ズー・ヌワース英語版と戦った[2][3][4]。ズー・ヌワースは捕虜になることを良しとせず、乗馬したまま海中に身を投じて死んだとされる[5]。ヒムヤル王国出身のキリスト教徒スムヤファ・アシュワァ英語版が、事実上の傀儡政権の王に任命された[6]。しかし、525年頃にアシュワはアクスム王国の将軍アブラハ英語版によって廃位され、自らを新たなヒムヤル・アクスム王国の王と宣言した[3]

ヒムヤル王国の残党の反抗

アブラハの死後、息子のヤ(ア)クスム、次いでマスルーク・イブン・アブラハ英語版が後を継いで王位につき[7]、アクスム王国への貢納を再開した。これらを受けて、ヤズアン族英語版サイフ・イブン・ズィー・ヤザン英語版(アブー・ムッラ・ズー・ヤザン)が反乱を決心した[4]。サイフ・イブン・ズィー・ヤザンは東ローマ帝国ユスティヌス2世に軍事援助を拒否されると、サーサーン朝のホスロー1世に援助を求めた[4]

サーサーン朝の第一次侵攻

ホスロー1世は将軍ワフリーズ英語版とその息子ナウザドを、ダイラム族の罪人騎兵800人からなる小規模な遠征軍の指揮官に据え、アクスム朝支配下のイエメンに派遣した[8][9]。サーサーン朝の遠征軍の兵力は、3,600人や7,500人(イブン・クタイバの記述より)、800人(タバリーの記述)など様々なものが伝えられていて、現代では16,000人であると推定されている。サーサーン朝の遠征軍は8隻の船団をペルシア湾から送り出し、アラビア半島の海岸を航海し2隻は難破したが、残りの船は南アラビアハドラマウト地方に到着した[10][9]。具体的には、オボッラ英語版の港から出航し、バーレーン諸島を占領し、続いて歴史的オマーンの港湾都市ソハールに進軍した。その後ドファールとハドラマウを占領し、アデンに上陸した[11]

この侵攻の際、ナウザドはアクスム王国の勢力に殺された[10]。ワフリーズはマスルーク・イブン・アブラハ英語版への復讐を追い求め、ハドラマウトの戦い英語版で彼の軍隊を破り、戦死させた。ハドラマウトの戦いの勝利により、アクスム王国のアラビアから撤退し始め、サナア包囲戦英語版が起こった。

イエメンでの、サーサーン朝皇帝ホスロー1世とアクスム勢力の王マスルーク・イブン・アブラハ英語版との戦争を描いたフレスコ

サナアが占領されると、ワフリーズはかつてのヒムヤル王国の王族の末裔サイフ・イブン・ズィー・ヤザン英語版をサーサーン朝の傀儡政権の王位につけた[8]。この時点でヒムヤル王国は滅亡したと考えられている[9]。この年代は、東ローマ帝国側の資料では、570年代の始め、アラブ側の資料では575年頃とされている[9]。タバリーは、サーサーン朝がアクスム勢力に勝利した要因が、アクスム勢力にとってはまだ未知の、サーサーン朝が採用した「パンジャガーン英語版」という軍事技術であったと記述している。イエメンを征服し、アクスム王国の勢力が駆逐された後、ワフリーズは大量の戦利品を持ち帰った[12]

アクスム勢力の復権とサーサーン朝の第二次侵攻

575年から578年ごろ、サイフ・イブン・ズィー・ヤザンがエチオピア人の家臣に暗殺されると、アクスム王国は再びアラビア半島に侵入し、勢力を再び確立した。サーサーン朝は4000人の軍勢をワフリーズに率いさせて、イエメンに2度目の侵攻英語版を行った。イエメンはサーサーン朝の一つの州として併合され(サーサーン朝領イエメン英語版)、ホスロー1世はワフリーズをイエメンの総督に任じた[8]歴史的イエメン英語版は、7世紀初頭にイスラーム教の預言者ムハンマドが出現するまで、サーサーン朝の支配下に置かれた。

関連項目

  • アル・アブナー英語版
    • アクスム・サーサーン戦争の影響によって、イラン人の父とアラブ人の母を持った人々の共同体。

出典

  1. ^ 蔀 2018 p,193
  2. ^ 蔀 2018 p,177~179
  3. ^ a b Robin, Christian Julien (2015). "Before Ḥimyar: Epigraphic Evidence for the Kingdoms of South Arabia". In Greg Fisher (ed.). Arabs and Empires before Islam. Oxford University Press. pp. 90–126.
  4. ^ a b c Umair Mirza (1998-01-01). History of Tabari - Volume 5. http://archive.org/details/tabarivolume05 
  5. ^ 蔀 2018 p,179~180
  6. ^ 蔀 2018 p,180
  7. ^ 蔀 2018 p,191
  8. ^ a b c Welcome to Encyclopaedia Iranica”. 2025年2月28日閲覧。
  9. ^ a b c d 蔀 2018 p,192
  10. ^ a b The History of Al-Tabari: The Sasanids, the Lakhmids, and Yemen, p. 240, - Google ブックス
  11. ^ Miles, Samuel Barrett (1919) (英語). The Countries and Tribes of the Persian Gulf. Harrison and sons. p. 26-29. https://archive.org/details/countriestribeso01mileuoft 
  12. ^ Muhammad and the Origins of Islam, p. 100, - Google ブックス

参考文献




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