七大貴族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/16 06:13 UTC 版)
七大貴族(ななだいきぞく、英:Seven Great Houses of Iran)は、サーサーン朝期の有力な貴族層を指す用語[1]。その多くは起源をアルシャク朝(アルサケス朝、パルティア)時代に遡るとされた。サーサーン朝の研究において重要視する学者がいる一方、常に使用される用語であるわけではない[注釈 1]。
注釈
- ^ イランの「Great Houses」を重要視し、これに深く言及する学者には例えばPourshariati[2]がいる。彼女はエンサイクロペディア・イラニカのカーレーン家(Kārin)の項目を担当しており、その説明においてこの用語を用いている[3]。日本の学者では青木健などが著書『新ゾロアスター教史』(刀水書房 2019年)等で「七大貴族」という用語を使用している。一方で、Eberhard W. Sauer『Sasanian Persia: Between Rome and the Steppes of Eurasia』(Edinburgh University Press2017)、足利惇氏『世界の歴史 9 ペルシア帝国』(講談社 1977年)や山本由美子『世界の歴史 4 オリエント世界の発展』(中央公論社 1997)などはイラン史の概説を行うにあたって特にこの用語は使用していない。
- ^ 5世紀のアルメニアの歴史家モウゼス・ホレナツィはこの3家系の起源をアルシャク朝の王室と結びつける記録を残している。彼によればアルシャク朝の王アルシャヴィル(Arshavir)の子供にスーレーン、カーレーン、アルタシェス(Artashes)、姉妹のコシェム(Koshm)がいたという[12]。このアルシャヴィルは通常、フラハート4世(プラアテス4世、在位:前40年/38年頃-紀元前2年)に同定される。そしてコシェムは「騎兵司令官(スパーフベド)」と結婚した。彼らは合意によってアルタシェスが王となり、カーレーン、スーレーン、そしてコシェム・アスパーフベドは東方の地を与えられたという[12]。Lukoninによれば、このモウゼスの記録は一連の時代錯誤と通俗的な語源説、作為的な系譜のためにほとんど史実性を見出すことはできない[12]。
- ^ ナクシェ・ロスタムの碑文には、こうした最重要の貴族家系に加えて、20以上の貴族家系のメンバーが記載されている[12]。
- ^ アルメニアの歴史家Łazar P'arpec'iは彼をスーレーン家と結びつけている[13]。また、タバリーによれば彼はミフラーン家の出身である。
出典
- ^ Pourshariati 2008, p. 44.
- ^ Pourshariati 2008.
- ^ Pourshariati 2017.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n Shahbazi 2002, pp. 511–515.
- ^ ボイス 2010, p. 37.
- ^ ボイス 2010, p. 45.
- ^ ボイス 2010, p. 60.
- ^ ヘロドトス, 巻3§71, 松平訳 p, 331.
- ^ a b c Lukonin 1983, p. 703.
- ^ a b c d e f g h i Pourshariati 2008, p. 49.
- ^ a b c d e f g h Lukonin 1983, p. 704.
- ^ a b c d Lukonin 1983, p. 705.
- ^ Pourshariati 2008, p. 60.
- ^ Pourshariati 2008, p. 181.
- ^ a b c Lukonin 1983, p. 706.
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