セウェルス朝
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セウェルス朝(セウェルスちょう、193年 - 235年)は、ローマ帝国における王朝の一つで、セプティミウス・セウェルス、カラカラ、ゲタ、ヘリオガバルス、アレクサンデル・セウェルスら5名の皇帝による治世を指す。途中でマクリヌスによる帝位簒奪を経ており、これを含む場合もある。
概要
背景
帝政中期、異国の侵入はマルコマンニ戦争での勝利を境にしてやや小康状態に入っていたが、常備軍の肥大化と政治力の拡大は深刻な内憂外患となりつつあった。そんな最中でネルウァ=アントニヌス朝の6代君主コンモドゥス帝が狂気に陥り、暴政の末に暗殺される事件が発生した。 コンモドゥスを除いて同王朝に男系子孫(女性はあり)はなかった為に断絶が決定的なものとなり、各地で「第四の王朝」を望む諸侯が抗争を繰り広げた。最終的にペスケンニウス・ニゲル、クロディウス・アルビヌス、そしてセプティミウス・セウェルスの三名の将軍で争った。
セウェルスは政敵を打ち倒した後、軍の支持を取り付けることで元老院や民衆を押さえ込んで新たな王朝を承認させた。その点では軍・元老院・民衆の三権を基本的には尊重したそれ以前の王朝に対し、セウェルス朝は最初から軍事独裁としての性質が強かった。これは後の軍人皇帝時代に頻発する「軍による帝位簒奪」を予兆させる出来事とも捉えられる。
一時的な断絶と復興
セウェルスの後を継いだカラカラは共同皇帝であった弟ゲタを殺害する暴挙に及び、更に様々な暴政を繰り広げてセウェルス朝に対する不満が高まった。それでも軍を支持基盤とする方法を遵守していたカラカラの帝位は磐石であったが、暗殺により倒れるとセウェルス朝に男系男子が居なかったことから一度セウェルス朝は断絶している。
その政治的空白で台頭したのがカラカラの側近マクリヌスであり、帝位を元老院に承認させた上で自らの子息を共同皇帝にするなど早くも新しい王朝成立を画策していた。これに対してセウェルスの妻ユリア・ドムナの生家でセウェルス朝の外戚として権威を得ていたバッシアヌス家が、ドムナの姪(姉マエサの娘)が産んだ息子ヘリオガバルス(カラカラにとっては伯母の孫(従甥))を頭目に反乱軍を組織した。
女系・傍系の血筋だけでは不十分と考えたマエサは、ヘリオガバルスがカラカラの落胤であるとも主張して軍や貴族の支持を纏め上げた。マクリヌスはヘリオガバルス派の軍勢に敗北を喫した後、息子と共に処刑された。これでマクリヌスの王朝は確立される前に終焉し、大いに正当性に疑いがあるものの再びセウェルス朝が復興された。
肖像
歴代君主
セプティミウス・セウェルス
ルキウス・セプティミウス・セウェルスはローマ帝国領アフリカ出身の元老院議員で、ポエニ戦争での戦功で領土を得たエクィテスを祖先とする。
セウェルスは軍人として頭角を現し、マルクス・アウレリウス帝とコンモドゥス帝の二代に仕えた将軍となった。コンモドゥス帝の死後、権力掌握に中央政権の要人が相次いで失敗する様に各地で軍司令官の蜂起が始まり、パンノニア総督であったセウェルスはその一人として帝位請求を行った。同じ請求者であったシリア属州総督ペスケンニウス・ニゲル、ブリタンニア総督クロディウス・アルビヌスを破ったセウェルスは軍の支持の元に元老院を押さえ込み、専制的な統治体制を整えた。
軍の支持を背景にしたセウェルスはパルティアなどとの対外戦争で多くの勝利を重ね、ローマの防衛力再建に業績を上げた。一方で軍事独裁の側面が強い統治は元老院と市民の権威を無視する傾向を作り、後の軍人皇帝時代の前兆となった。軍の歓心を買う為に給与の増額や軍備拡大も推し進め、コンモドゥス帝時代に一度は引き下げられた軍事費は再び高騰して帝国財政に重い負担を残した。
私生活では最初の妻と子供に恵まれなかったセウェルスは24歳年下でシリアの神官の娘であったユリア・ドムナと再婚して漸く子供を授かったが、次第に妻の実家であるバッシアヌス家による専横を許す事になる。またその子供であるカラカラはローマの暴君の一人として名を残してしまい、これもセウェルスの名声を落とす要因となった。ブリタンニア遠征中にエボラクム(現ヨーク)にて病に倒れ、帝位はカラカラと弟ゲタに引き継がれた。
カラカラとゲタ
前皇帝セウェルスが42歳にして授かったカラカラことルキウス・セプティミウス・バッシアヌスは、弟プブリウス・セプティミウス・ゲタと共に父の後継者として養育された。父が病没すると両者は正式に皇帝に即位し、ローマでは三例目となる直系世襲[1]を果たした。
継承前にバッシアヌスは前王朝のアントニヌス朝との繋がりを強調するため名をマルクス・アウレリウス・アントニヌスと改めた。また、それに伴いコンモドゥス帝の名誉回復も図られコンモドゥス帝へのダムナティオ・メモリアエは撤回された。
しかしこの兄弟は非常に仲が悪く、兄弟というより忌むべき宿敵としてお互いを憎みあった。皇帝に即位した後も激しい権力闘争を繰り広げ、一時は帝国を二分するという仲裁案が出されたほどであったという。両者の諍いは兄カラカラが弟ゲタを母ドムナの眼前で殺害する凶行へと至り、合わせてゲタを支持していた大勢の貴族達が粛清された。これが暴君として名を残したカラカラの治世における最初の特筆されるべき行動であった。
カラカラは私生活では暴君の常として酒色に耽溺した生活を送り、それを窘める人間は容赦なく迫害した。自分の弟殺しを批判するアレクサンドリア市での噂を聞きつけると、弁明の場と称して民衆を集めた上で軍に殺戮させた。カッシウス・ディオ、ヘロディアヌスらにより、この凄惨な虐殺の記録が残されている。内政面では軍の給与保障の為に新通貨(正式名は不明だがアントニニアヌスと通称される)を発行、インフレーションを引き起して更に帝国財政を悪化させるなど思慮の浅い行為を繰り返した。特に税収確保の為に行ったアントニヌス勅令では全属州民に市民権を無条件付与したが、市民権の特権を事実上失わせたことで帝国内の民族バランスが大きく崩れ、同勅令は帝国崩壊の一因ともなった。外征面でも父に倣って親政を行ったものの、賠償金で蛮族を撤兵させるなど戦果を挙げることはできなかった。
形振り構わぬ軍への優遇策で父と同じ軍事独裁による体制維持に成功し、暴政と失態を繰り返しながらも治世は維持されていた。だが私怨を抱いていた護衛の兵士に放尿中に剣を突き立てられ、呆気ない最期を迎えた。子息や他の男系子孫もいなかった事でセウェルス朝は断絶し、重臣マクリヌスが元老院の支持を得て皇帝となった。
マクリヌスの帝位簒奪
カラカラ帝の親衛隊長官であったマクリヌスにはセウェルス朝との血縁がない。マクリヌスはカラカラの暗殺後帝位に就き、息子のディアドゥメニアヌスをアウグストゥスとして自らの王朝建設を試みた。また、自身の基盤の不安を取り除くため、セウェルス朝の外戚であったバッシアヌス家をローマから追放した。
しかし、これが裏目に出てしまった。バッシアヌス家の女当主ユリア・マエサ(セプティミウス・セウェルスの皇后ユリア・ドムナの姉妹)はセウェルス朝の復興を画策し、長女ユリア・ソエミアスの息子ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス(後のヘリオガバルス)をカラカラの落胤と称してシリアで反乱を起こした。
反乱軍に敗北したマクリヌスは処刑、息子のディアドゥメニアヌスもパルティアへの逃亡中に反乱軍に捕らえられて殺害され、マクリヌスの新王朝建設は失敗に終わった。
ヘリオガバルス
セウェルス朝の断絶によって外戚であったバッシアヌス家は宮殿から故郷シリアへと追放された。既に死没していた皇太后ユリア・ドムナの姉でバッシアヌス家の頭領となっていたユリア・マエサは密かに一族の復権を画策し、カラカラの従姉妹にあたる長女ソエミアスの息子である神官ヘリオガバルスを利用して反乱を起こした。マエサは後に女系だけでなく男系からも血統上の正当性を主張すべく、カラカラの親族として宮廷に出入りしていたソエミアスが皇帝の妾でヘリオガバルスは落胤であると主張した。金銭的な買収でバッシアヌス家に寝返った軍はマクリヌスを殺害、ヘリオガバルスが新たな皇帝となった。
皇帝としてヘリオガバルスはカラカラをある意味では凌ぐほどの暴政を行った。といっても粛清や弾圧というよりは、個人的な退廃や風紀の堕落という点においてである。ヘリオガバルスは神官でありながら酒色に耽って何人もの妻との離婚を繰り返し、その過程でウェスタの巫女を辱める行為まで働いた。加えて性的に倒錯した部分を持ち、自ら女装して男性の奴隷に犯される事に愉悦を覚えていたと伝えられる。こうした退廃は次第にエスカレートして男娼として街を歩き、挙句には宮殿を売春宿代わりにしたとカッシウス・ディオは伝えている。
また神官であった為かシリアで信仰されていたエルガバル神の崇拝を帝国国民に強制し、従来の信仰体系を無配慮に踏み躙った。帝国中の宗教的施設から宝物が持ち出されてローマ中心部に建設されたヘリオガバリウムなる神殿に安置され、そこでヘリオガバルスは神への忠誠として割礼を行い、舞踊を奉じる様を元老院議員に見るよう命じたという。
度重なる異常行動に再びセウェルス朝やバッシアヌス家への反感が高まると、ユリア・マエサは長女ソエミアスとヘリオガバルスを見限った。次女アウィタとその子であるもう一人の孫アレクサンデル・セウェルスを帝位継承者に立てたのである。危機感を強めたヘリオガバルスはアレクサンデルを追放しようとしたものの、逆にソエミアスと共に処刑された。その遺骸は首を切り落とされた上で裸体のまま馬に乗せられて晒し者にされ、最後にはテヴェレ川に投げ捨てられたという。
アレクサンデル・セウェルス
従兄の代理として祖母マエサに担ぎ出されたアレクサンデル・セウェルスは気弱だが温厚な人物で、ヘリオガバルス時代の乱れた風紀と極端な宗教政策を正す事に尽力した。
貴族達の支持を得たアレクサンデルは続いて財政再建に着手して重い負担になっていた軍事費の削減を行い、軍との距離を取り始めた。しかし軍事力を後ろ盾とするセウェルス朝にとってこの判断は命取りであった。各地で軍の反乱や不服従行為が広がり、加えて対外問題を金銭賠償で解決する路線が弱腰と評価された事も相まって、マインツ滞在中にゴート族出身の下級軍人マクシミヌス・トラクス率いる反乱軍に殺害された。
彼の死で復古されたセウェルス朝も終焉を迎え、以降は軍による帝位簒奪が繰り返される軍人皇帝時代が始まることとなる。
家系図
マルキア | マルクス・トラヤヌス | ネルウァ | ウルピア | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マルキアナ | トラヤヌス | ポンペイア | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アエリウス・ハドリアヌス | 大パウリナ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルボ・ルピリウス・フルギ | マティディア | ウィビウス・サビニウス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルピリア・アンニア | アンニウス・ウェルス | ルピリア・ファウスティナ | ウィビア・サビナ | ハドリアヌス | アンティノウス | 小パウリナ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ドミティア・ルキッラ | マルクス・アンニウス・ウェルス | マルクス・アンニウス・リボ | 大ファウスティナ | アントニヌス・ピウス | ルキウス・アエリウス | ユリア・パウリナ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
コルニフィキア | マルクス・アウレリウス | 小ファウスティナ | アウレリア・ファディラ | サリナトル | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小コルニフィキア | ファディラ | コンモドゥス | ルキッラ | ルキウス・ウェルス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンニア・ファウスティナ | ユリア・マエサ | ユリア・ドムナ | セプティミウス・セウェルス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ユリア・ソエミアス | ユリア・アウィタ | カラカラ | ゲタ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アウレリア・ファウスティナ | ヘリオガバルス | アレクサンデル・セウェルス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
傍系子孫
「セウェルス朝の断絶」というのは「セウェルス朝(=セウェルス家)によるローマ帝国支配が終焉を迎えた」という意味であり、セウェルス家の血筋自体はセプティミウス・セウェルスの兄プブリウス・セプティミウス・ゲタ(143年 - 203年頃/204年頃)の子孫(または、セプティミウス・セウェルスの父プブリウス・セプティミウス・ゲタの従兄弟プブリウス・セプティミウス・アペルの子孫)がアレクサンデル・セウェルスの死後も生き残っていた為、存続している。なお、プブリウスの姉妹にセプティミア・オクタウィッラがいる。セプティミア・オクタウィッラの結婚相手の正式な記録は無いが、彼女はルキウス・フラウィウス・セプティミウス・アペル・オクタウィアヌス(180年頃 - 205年。妻はネラティア)の母親であった可能性が指摘されており、ルキウス・フラウィウス・セプティミウス・アペル・オクタウィアヌスの経歴は、その娘フラウィア・ネラティア・セプティミア・オクタウィッラによって3世紀初頭に建てられた記念碑の碑文に詳述されている。
- セプティミウス(プブリウス・セプティミウス・アペル)- 恐らく153年の執政官であるプブリウスの息子。
- ガイウス・セプティミウス・セウェルス・アペル(175年 - 212年)- プブリウスの孫。セプティミウスの息子。207年の執政官。カラカラによって処刑された。
- ルキウス・セプティミウス(210年 - ?) - ガイウスの息子。
- ルキウス・セプティミウス・セウェルス(245年頃生誕)- ルキウスの息子。妻はポンポニア・バッサ(250年頃生誕。ポンポニウス・バッスス(220年 - 271年以降)とポンポニア・グラティディアの娘。ポンポニウスの母アンニア・アウレリア・ファウスティナ(201年頃 - 222年頃)はマルクス・アウレリウス・アントニヌスの曾孫でその後継者コンモドゥスの大姪(姉の孫)にあたる。アンニアはポンポニウス・バッスス(175年 - 221年)と結婚して長男ポンポニウスと長女ポンポニアを儲けたが、ヘリオガバルスが王朝の連続性を示す為に、ポンポニウス・バッススを221年に処刑して、アンニアと無理矢理に再婚したが、すぐに離婚している)。
- セプティミウス・バッスス(270年頃 - 319年以降)- ルキウスとポンポニアの息子。
- セプティミア(305年頃生誕)- ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの姉小オクタウィアの末裔(小オクタウィアから数えて14代目)ルキウス・ウァレリウス・マクシムス・バシリウス(295年頃 - 337年以降)の最初の妻。
- セプティミウス・バッスス(270年頃 - 319年以降)- ルキウスとポンポニアの息子。
- ルキウス・セプティミウス・セウェルス(245年頃生誕)- ルキウスの息子。妻はポンポニア・バッサ(250年頃生誕。ポンポニウス・バッスス(220年 - 271年以降)とポンポニア・グラティディアの娘。ポンポニウスの母アンニア・アウレリア・ファウスティナ(201年頃 - 222年頃)はマルクス・アウレリウス・アントニヌスの曾孫でその後継者コンモドゥスの大姪(姉の孫)にあたる。アンニアはポンポニウス・バッスス(175年 - 221年)と結婚して長男ポンポニウスと長女ポンポニアを儲けたが、ヘリオガバルスが王朝の連続性を示す為に、ポンポニウス・バッススを221年に処刑して、アンニアと無理矢理に再婚したが、すぐに離婚している)。
- ルキウス・セプティミウス(210年 - ?) - ガイウスの息子。
西ローマ帝国皇帝オリブリオスの娘アニキア・ユリアナの長男フラウィウス・オリュブリウス・ミノール(480年頃生誕)は東ローマ帝国皇帝アナスタシウス1世の弟パウルス(445年 - 496年以降)の娘イレーネー(485年頃生誕、母マグナは簒奪帝マグヌス・マクシムスと西ローマ皇帝ペトロニウス・マクシムスの子孫)と結婚。一人娘にプロバ(510年頃生誕)。
プロバとオリブリオスの弟アニキウス・プロブスの孫アニキウス・プロブス・ミノールが結婚。2人の関係は再従叔父と再従姪にあたる(プロバの父フラウィウス・オリュブリウス・ミノールとアニキウス・プロブス・ミノールが再従兄弟同士)。この2人の娘がユリアナ(533年頃生誕)。
ユリアナはアナスタシウス(530年頃 - 571年以降。東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世(アナスタシウス1世の次々代皇帝)の皇后テオドラの庶子テオドラ(515年頃生誕)とユリアナの母方の祖母イレーネーの兄プロブス(480年頃 - 542年以降)の息子フラウィウス・アナスタシウス・パウルス・プロブス・サビニアヌス・ポンペイウス(500年頃 - 517年以降)の長男。弟にヨハネス(532年頃生誕)とアタナシウス(535年頃生誕))と結婚。長男アレオビンドゥス(550年頃生誕)、長女プラキディア(552年頃生誕)、次女プロバ(生没年不詳)の1男2女がいる。アレオビンドゥスとプラキディアに子孫が確認できる。
長男アレオビンドゥスの娘アナスタシア・アレオビンダ(570年頃生誕)は東ローマ皇帝マウリキウス(ユスティニアヌス1世の3代後の皇帝)の弟ペトルス(545年頃 - 602年)と結婚。娘フラウィア・ユリアナ(590年頃生誕)がいる。フラウィア・ユリアナは西ゴート王国国王レオヴィギルドの長男ヘルメネギルドとその妻イングンド(メロヴィング朝フランク王国の分王国アウストラシアの第一王女)の息子で合法的な西ゴート王国王位継承権を持つアタナギルド(579年以降の生誕。没年不明)と結婚。息子にアルデバルト(アルダバスト)がいる。アルデバルトは後に理由は不明だが、東ローマ帝国から追放処分を受けて西ゴート王国に亡命、時の西ゴート王キンダスウィントの姪ゴダ(610年頃生誕)を妻とした。その間から680年から7年間、西ゴート王を務めたエルウィグが生まれた。エルウィグの子孫は少なくとも玄孫の代まで確認される。
長女プラキディアはヨハンネス・ミュスタコン(545年 - 591年)と結婚。ウァレンティヌス(580年 - 644年/645年)、エウフェミア(575年頃生誕)、マヌイル(585年頃 - 634年以降)の3人を儲けた。
マヌイルには名前不詳の娘(620年頃生誕)がおり、彼女の子孫は後世に繁栄、存続している。
エウフェミアはユスティニアヌス1世の妹ウィギランティアの曾孫グレゴリウス(560年頃生誕)と結婚。息子にニケタス(590年 - 629年)。ニケタスの妻グレゴリア(585年頃生誕)はニケタスの父グレゴリウスの姉妹エピファニアと大ヘラクレイオス(550年 - 610年)の娘で、後にヘラクレイオス王朝の初代皇帝となるヘラクレイオス1世の妹である。ニケタスとグレゴリアの子女は3人(グレゴリア(612年 - 650年以降、ヘラクレイオス1世の長男コンスタンティノス3世の皇妃でコンスタンス2世の母)、ニケ(615年 - 630年以降)、グレゴリウス(647年に戦死))である。
ウァレンティヌスには娘ファウスタ(625年頃 - 681年以降)がおり、コンスタンス2世の皇妃となり、コンスタンティノス4世、ヘラクレイオス、ティベリオスの3男を儲けた。コンスタンティノス4世の皇妃アナスタシアはコンスタンティノス4世の曾祖父ヘラクレイオス1世が側室(ゲルマヌスの次女。ゲルマヌスの母マタスンタは東ゴート王国初代国王テオドリック大王の孫娘でユスティニアヌス1世の従弟ゲルマヌス・ユスティヌスと結婚していた)との間に儲けたヨハンネス・アタラリック(600年頃 - 637年以降)の娘である。なお、ゲルマヌス・ユスティヌスの母がアニキア・ユリアナとフラウィウス・アレオビンドゥス・ダガライフスの娘である可能性が指摘されている。
ヘラクレイオス1世の最初の皇妃ファビア(580年 - 612年)はアニキア・ユリアナの息子でアニキウス・オリュブリウス・ミノールの弟アレオビンドゥス(485年頃生誕)の曾孫(アレオビンドゥスと妻ゲオルギアの息子がプロブス(510年 - 542年)。プロブスと妻アウィエナ(520年頃生誕、西ローマ帝国最後の皇帝ロムルス・アウグストゥスの外孫。フラウィウス・オレステスの曾孫。母の名はバルバラ(495年頃生誕)。父ルフィウス・マグヌス・ファウストゥス・アウィエヌスは小オクタウィア・アウグストゥス姉弟の子孫)の娘がプロバ(540年頃生誕)。プロバはロガスという男性と結婚。ファビアが生まれた)で、ヘラクレイオス1世との間にコンスタンティノス3世とエピファニアの2人を儲けた。
コンスタンティノス4世は皇妃アナスタシアとの間にユスティニアノス2世とヘラクレイオスの2男を儲けた。
ユスティニアノス2世は最初の皇妃エウドキアから長女アナスタシア(685年頃生誕)を得た。アナスタシアはブルガリア王テルヴェル(672年 - 721年)に嫁ぎ、息子テレリグ(706年 - 777年)を儲けた。2番目の皇妃テオドラから長男ティベリオスを得ている。なお、2番目の皇妃テオドラはユスティニアノス2世の曾祖父コンスタンティノス3世の姉エピファニアの玄孫にあたる。
注
- ^ それまではウェスパシアヌス→ティトゥス、マルクス・アウレリウス→コンモドゥスの二例しかなかった。
セウェルス朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:48 UTC 版)
詳細は「セウェルス朝」を参照 肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因 セプティミウス・セウェルス CAESAR LVCIVS SEPTIMIVS SEVERVS PERTINAX AVGVSTVS 146年4月11日レプティス・マグナ(属州アフリカ) 193年4月9日 - 211年2月4日 セプティミウス氏族出身。セウェルス朝を樹立して、軍人皇帝時代まで自身の王朝を維持した。 211年2月4日 自然死 カラカラ CAESAR MARCVS AVRELIVS SEVERVS ANTONINVS PIVS AVGVSTVS 186年4月4日ルグドゥヌム(属州ガリア・ルグドゥネンシス) 198年頃 – 217年4月8日 セプティミウス氏族出身。セウェルスの長男。父の即位と同時期に共同皇帝へ指名され、後に弟ゲタも共同皇帝となって三名で統治を行っていた。しかし父の死後にゲタを処刑して単独の皇帝となる。 217年4月8日 マクリヌスによる暗殺。 ゲタ CAESAR PVBLIVS SEPTIMIVS GETA AVGVSTUS 189年3月7日ローマ(イタリア本土) 209年頃 – 211年12月26日 セプティミウス氏族出身。セウェルスの次男。209年頃から父と兄の共同皇帝となる。 211年12月26日 カラカラによる暗殺。 肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因 マクリヌスとディアドゥメニアヌス MARCVS OPELLIVS SEVERVS MACRINVS AVGVSTVS PIVS FELIX with MARCVS OPELLIVS ANTONINVS DIADVMENIANVS 165年(マクリヌス・オペッリウス)208年(マルクス・オペッリウス・ディアドゥメニアヌス) 217年4月11日 - 218年6月8日 オペッリウス氏族出身。セウェルス朝と血縁関係がない。カラカラ帝時代に近衛隊長を務めていたマクリヌスとその子ディアドゥメニアヌスはカラカラを謀殺してセウェルス朝を一旦断絶させた。しかしカラカラの落胤を自称する(実際には従姉の子(従甥)でカラカラの母方の伯母ユリア・マエサの孫)ヘリオガバルスの軍に敗れ、親子共に相次いで戦死した。 218年 ヘリオガバルス軍に敗死 肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因 ヘリオガバルス MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS 203年3月20日エメサ(属州シリア) 218年6月8日 – 222年3月11日 氏族不明。カラカラの従姉ユリア・ソエミアス・バッシアナによって、カラカラの落胤として掲げられた。性的倒錯の末、近衛隊に暗殺される。 222年3月11日 近衛隊による暗殺 アレクサンデル・セウェルス CAESAR MARCVS AVRELIVS SEVERVS ALEXANDER AVGVSTVS 208年10月1日アルカ・カエサリア(属州ユダヤ) 222年3月13日 - 235年3月18日 氏族不明。ヘリオガバルスの従弟で、ヘリオガバルスを見限った祖母ユリア・マエサによって擁立された。 235年3月18日 軍による暗殺
※この「セウェルス朝」の解説は、「ローマ皇帝一覧」の解説の一部です。
「セウェルス朝」を含む「ローマ皇帝一覧」の記事については、「ローマ皇帝一覧」の概要を参照ください。
セウェルス朝 (193-235)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「セウェルス朝 (193-235)」の解説
ネルウァ=アントニヌス朝最後の皇帝コンモドゥスが暗殺されると、ペスケンニウス・ニゲル、クロディウス・アルビヌス、セプティミウス・セウェルスら諸侯が抗争し、193年にセプティミウス・セウェルスが史上初のアフリカ属州出身の皇帝となり、セウェルス朝がはじまった。セウェルスの息子カラカラ帝は共同皇帝であった弟のゲタを粛清し、217年に殺害された。プラエトリアニ(近衛隊)長のマクリヌスが皇帝になる。しかし、シリアにいたセウェルス家の外戚バッシアヌス家の反乱でマクリヌス側が敗北すると、バッシアヌス家のヘリオガバルスが218年に皇帝になる。ヘリオガバルスはシリアの太陽神を信仰し、ローマのエラガバリウム神殿の主神とした。222年ヘリオガバルスは暗殺され、従兄弟のアレクサンデル・セウェルスが皇帝となる。 セウェルス朝は軍事独裁、軍国主義の側面が強く、統制経済の傾向も強かったが、235年にセウェルス・アレクサンデル帝が軍に暗殺されセウェルス朝が断絶した。セウェルス・アレクサンデル帝は、自室にギリシア神話・ローマ神話のアポローン、オルフェウス以外に、ユダヤ教・キリスト教の始祖アブラハムとイエス・キリストの像も置いており、ローマ伝統の宗教とユダヤ・キリスト教のいずれをも崇敬していた。
※この「セウェルス朝 (193-235)」の解説は、「古代末期のキリスト教」の解説の一部です。
「セウェルス朝 (193-235)」を含む「古代末期のキリスト教」の記事については、「古代末期のキリスト教」の概要を参照ください。
セウェルス朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 17:15 UTC 版)
五賢帝時代が終わり、コンモドゥスの治世、そして193年にコンモドゥスを殺しペルティナクスが帝位に就くと、それに対して対立皇帝が擁立され内乱状態となった。この時、第14軍団を含むパンノニアの全軍団はセプティミウス・セウェルスを支持して、皇帝に推挙、第14軍団は彼の指揮のもとでローマへ進軍、そして対立皇帝のディディウス・ユリアヌスを殺害、セウェルスは元老院よりローマ皇帝の承認を受ける。そして皇帝となったセウェルスのもとで対抗勢力のペスケンニウス・ニゲルとの戦闘に従軍、勝利し、セウェルスは単独のローマの支配者としてセウェルス朝の始祖となった。また彼の指揮のもとで第14軍団は中東のパルティアとの戦争にも従軍、恐らくクテシフォンを陥落させた戦闘にも参加していたとも考えられている。
※この「セウェルス朝」の解説は、「第14軍団ゲミナ」の解説の一部です。
「セウェルス朝」を含む「第14軍団ゲミナ」の記事については、「第14軍団ゲミナ」の概要を参照ください。
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