テトラルキア
テトラルキア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 15:18 UTC 版)
また、ディオクレティアヌスは帝国の広大な領土を分割して統治することを考え、まず腹心のマクシミアヌスを共同皇帝に即位させて領土を東西に二分して西方を統治させ、さらに東西それぞれの皇帝の下に副帝を一名ずつ据え、二人の正帝(アウグストゥス)と二人の副帝(カエサル)の計四人の皇帝による分割統治体制を確立させた。 複数の皇帝による統治体制は、帝国のどの地域で.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}出来(しゅったい)する変事に対しても迅速な対応を可能にし、混乱の終息に大いに寄与した。 この体制は「テトラルキア」(四分統治制)と呼ばれて305年のディオクレティアヌス退位後も存続し、324年にコンスタンティヌス1世が単独の皇帝として即位するまで続くこととなる。
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テトラルキア(四帝統治)
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「西ローマ帝国」の記事における「テトラルキア(四帝統治)」の解説
詳細は「テトラルキア」を参照 284年に皇帝に即位したディオクレティアヌスは皇帝権を分割した。彼は自身を東方担当の正帝とする一方、マクシミアヌスを西方担当の正帝とし、ガレリウスとコンスタンティウス・クロルスをそれぞれ東西の副帝に任じた。この政治体制は「ディオクレティアヌスのテトラルキア(四分割統治)」と呼ばれ、3世紀に指摘された内乱を防ぎ、首都ローマから分離した前線拠点を作った。西方では皇帝の拠点はマクシミアヌスのメディオラヌム(現在のミラノ)とコンスタンティヌスのアウグスタ・トレウェロルム(現在のトリーア)であった。305年5月1日、2人の正帝が退位し、2人の副帝が正帝に昇格した。
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