テオドシウス朝
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テオドシウス朝(テオドシウスちょう、英語: Theodosian dynasty)は、379年に東方正帝として即位したテオドシウス1世から始まり、457年までローマ帝国を支配した王朝である。
概要
テオドシウス1世は西方正帝グラティアヌスによって彼の共同皇帝として東方正帝に選ばれたが、グラティアヌスの死後は次第に西方正帝を傀儡化し、ローマ帝国の東西領域を実質的に単独支配した。
395年のテオドシウス1世の没後、彼の2子によって帝国の分割統治が行われた。帝国の分割統治はそれ以前から行われていたものの、この分割以降にローマ帝国で東西宮廷の対立が深刻となったため、日本ではこの時をもってローマ帝国が東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂したとみなされている。
東では450年まで(テオドシウス1世の孫婿にあたるマルキアヌスを含めると457年まで)、西では455年まで続いた。
歴史
テオドシウス大帝
アルカディウスとホノリウス
- アルカディウスとホノリウスのコイン
テオドシウス2世とウァレンティニアヌス3世
- ウァレンティニアヌスのコイン
歴代君主
西方帝
- ホノリウス(在位395年 - 423年)
- コンスタンティウス3世(在位421年)[1]
- ウァレンティニアヌス3世(在位424年 - 455年)[2]
東方帝
系図
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アエリア・フラキア |
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テオドシウス1世 |
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ガッラ (ウァレンティニアヌス1世娘) |
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アルカディウス 東ローマ帝 |
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ホノリウス 西ローマ帝 |
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ガッラ・プラキディア |
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コンスタンティウス3世 西ローマ帝 |
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マルキアヌス 東ローマ帝 |
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アエリア・プルケリア |
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テオドシウス2世 東ローマ帝 |
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アエリア・マルキア |
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アンテミウス 西ローマ帝 |
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ペトロニウス・マクシムス 西ローマ帝 |
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リキニア・エウドクシア |
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ウァレンティニアヌス3世 西ローマ帝 |
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リキメル |
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アリピア |
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フネリック ヴァンダル王 |
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エウドキア |
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プラキディア |
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オリブリオス 西ローマ帝 |
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文化
- 絵画の中のテオドシウス朝
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「皇帝ホノリウス」(ジャン=ポール・ローランス作、1880年、クライスラー美術館)
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「皇帝ホノリウスの寵愛」(ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作、1883年、南オーストラリア美術館)
脚注
- ^ Theodosius I (top), Arcadius (left), and Honorius (right)
- ^ d·d·d·n·n·n·auggg· ("Our Lords the Augusti") : Theodosius (centre), Arcadius (left), Honorius (right)
- ^ d·n· arcadius p·f· aug· ("Our Lord Arcadius, Pious Happy Augustus")
- ^ Inscription: ael· eudoxia aug· ("Aelia Eudocia Augusta")
- ^ Inscription: d·n· honorius p·f· aug· ("Our Lord Arcadius, Pious Happy Augustus"), from Hoxne hoard
- ^ Inscription: d·n· galla placidia p·f· aug· ("Our Lady Galla Placidia, Pious Happy Augusta") The reverse shows Victory and a crux gemmata
- ^ Theodosius II (centre) blessing Valentinian III (left) and Theodosius' daughter Licinia Eudoxia (right)
参考文献
- 後藤篤子「テオドシウス朝」『世界大百科事典 第19巻』(平凡社、2007年改訂新版)
関連項目
テオドシウス朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:48 UTC 版)
詳細は「テオドシウス朝」を参照 肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因 テオドシウス1世 ”大帝” FLAVIVS THEODOSIVS AVGVSTVS 東ローマ 347年1月11日カウカ(属州ヒスパニア) 379年1月1日 – 395年1月17日 ローマ軍の将軍であった大テオドシウスの息子として生まれ、自らも軍人として栄達する。東方正帝ウァレンスがゴート族との争いで敗死した後、西方正帝グラティアヌスによって東方担当の共同皇帝に任命される。グラティアヌス没後、その異母弟ウァレンティニアヌス2世を傀儡化し、実質的にローマ帝国全土を単独支配した。 395年1月17日 自然死 アルカディウス FLAVIVS ARCADIVS AVGVSTVS 東ローマ 377年 383年1月 – 408年5月1日 テオドシウス1世の長男。東方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく(東ローマ帝国)。 408年5月1日 自然死 ホノリウス FLAVIVS HONORIVS AVGVSTVS 西ローマ 384年9月9日 393年1月23日 – 423年8月15日 テオドシウス1世の次男。西方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく(西ローマ帝国)。 423年8月15日 自然死 コンスタンティウス3世 FLAVIVS CONSTANTIVS AVGVSTVS 西ローマ 生年不明ナイッスス(属州モエシア) 421年2月8日 – 421年9月2日 テオドシウス1世の娘婿で、アルカディウスとホノリウスの義弟。ホノリウスの共同皇帝を務める。 421年9月2日 自然死 テオドシウス2世 FLAVIVS THEODOSIVS AVGVSTVS 東ローマ 401年4月10日コンスタンティノープル(属州トラキア) 408年5月1日 – 450年7月28日 アルカディウスの息子。テオドシウスの大城壁など、帝国東方の防衛強化を進める。跡継ぎを持たないまま病没した。 450年7月28日 自然死 ヨハンネス IOHANNES AUGUSTUS 西ローマ 不明 423年8月27日 – 425年5月 ホノリウス死後、テオドシウス朝を疎んだ元老院から推挙され皇帝となる。しかし東方正帝テオドシウス2世が派遣したゲルマン人の将軍アスパルに敗れて処刑された。 425年5月 アスパルにより処刑される ウァレンティニアヌス3世 FLAVIVS PLACIDIVS VALENTINIANVS AVGVSTVS 西ローマ 419年7月2日ラヴェンナ(イタリア本土) 424年10月23日 – 455年3月16日 コンスタンティウス3世の息子で、テオドシウス1世の孫。ヴァンダル族やフン族の侵略により西方領土の弱体化が進む。跡継ぎを持たないままに暗殺される。 455年3月16日 暗殺される マルキアヌス FLAVIVS MARCIANIVS AVGVSTVS 東ローマ 396年 450年夏 – 457年1月 テオドシウス2世の義兄(姉の夫)。義弟同様に跡継ぎに恵まれず、彼とその妻の死によってテオドシウス家は断絶した。 457年1月 自然死
※この「テオドシウス朝」の解説は、「ローマ皇帝一覧」の解説の一部です。
「テオドシウス朝」を含む「ローマ皇帝一覧」の記事については、「ローマ皇帝一覧」の概要を参照ください。
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